陶酔しすぎない

今日、お友達に誘われて、

「みんなの学校」というドキュメンタリー映画と、

その映画の舞台である大阪の小学校の

当時の校長先生の講演会を聞きに行ってきました。

 

他の学校では、厄介者扱いされて

排除された子や、

不登校の子どもたちが

集まってくる学校。

 

そんな子どもたちが、

安心して通える、

居場所を、

教職員、地域の人、保護者、

子どもたちも

当事者になって作っていく。

 

素晴らしいなー。

子どもの幸せのことを、

将来を見据えて、

真剣に考え向き合っている。

 

感動して帰ってきました。

 

うちの子どもたちの通う学校も、

こんな学校だったらいいのに。

先生たちも、

そうやって子どもたちに向き合って

くれればいいのに。

うちの学校はダメだわ〜。

子どもの担任の先生は、程遠いわ。

 

正直、そう思いました。

 

理想的な先生のお話を聞いて、

感動して、陶酔して、

いい気になってましたね。

 

最近わたしは、

等身大の自分を見つめて

過信しないで、卑下もしないで、

イタい部分を抱えたまま、

行動していくことを学びました。

 

自分をよく見せようとしたり、

立派な自分にならなくちゃとか、

そういう縛りから

自由になりたいと思って、

学び、行動しています。

 

それなのに、

理想的な人の話を聞いて、

同化してしまいました。

 

わたしはちっとも立派じゃない。

人のこと言ってる場合ではない。

 

陶酔しすぎて、それを忘れそうになっちゃった。

 

今の自分にできることを、

ひとつ、ひとつ。

焦らずやっていこうと思います。

 

いい人ってどんな人?

わたしって、いい人だ。

そう素朴に思っていた。

 

いい人なわたし。

相手を優先している、

思うようにしてあげている、

要望に応えている。

そうしていれば嫌われない、

と思っていた。

 

どこかで

いい人のわたしなのだから、

わたしに意地悪くする人はいない、

と思っていた。

なんとなく、そう思っていた。

 

そんなことは、ないのだ。

いい人だから意地悪されない、

いい人だからみんなが大事にしてくれる、

なんてことは、ないのだ。

 

わたしいいひとなのに、意地悪される。

ひどいことを言われる。

なぜだろう?

いい人に対して意地悪する極悪非道な相手。

という図式のできあがり。

単純でおバカさんなわたしだった。

 

自分がなくって、

相手の要望ばかり応えようとするのは、

いい人じゃなくて、

都合のいい人。

 

そもそも

嫌われたくないという動機は不純。

そんな不純な動機で行動する人は

いい人でなんか、なかったりする。

 

いい人であっても、

そうでなくても、

利害が対立すると、

攻撃してくる人はいる。

 

相手の幸せのことしか考えてないような、

素晴らしい人も、

その活動が注目されるようになると、

妬まれたりもする。

 

周りは、関係ないんだ。

周りには、左右されない。

自分がどうするか。

それだけ。

 

そう思えるようになった今も、

時々顔を出す、昔の思い込み。

わたしいい人なんだから、

意地悪されるわけがないって。

 

過信してるわ〜って、苦笑い。

おバカさんだったわたしを、

忘れないでいよう。

夏の疲れ

今年の夏休みは、忙しかった。

後半は、自分でも疲れてるなーと思いながら、

子どもとの約束だったり、

前々からの予定だったりが重なって、

少し無理をした。

 

夏休みが終わったら、体を休めるぞ〜と

意気込んで、休んだ。

1日、2日、休んでもなんか疲れが取れない。

3日間、最低限のことしかしなかった。

でも、身体はだるいまま。

あー、夏バテだわ。

そのあと、予定があってだるいまま出かける。

週末は、炎天下で、お兄ちゃんの野球の応援。

 

次の週、だるさはぬけない。

階段を登るのも、億劫なくらい足に力が入らない。

ダラダラしてるからいけないのか?

と、疑惑がわいてくる。

身体を動かしてみたら、余計疲れた。

 

罪悪感がやってくる。

最低限の家事。

散らかってくる部屋。

だらしないな、と責める気持ちも出てくる。

 

いつまで続くの〜〜〜。

焦る気持ち。

ずっとこのままだったら?

恐れる気持ち。

 

罪悪感も、自分を責める気持ちも、

焦りも恐れも

感じながら、

それも否定せず、

身体を休めた。

感じるものは、感じるのだ。

 

そうやって、約2週間。

気温も涼しくなり、

だるさがやっと抜けて来た。

足に力が入る。

身体もうごく。

ありがたい。

 

長かったわ。

夏の終わりは、苦手。

そういえば、去年の今ごろも夏バテだった。

すっかり忘れていた。

去年はもっと罪悪感があったし、

だらしないって自分を責めてた。

 

体調にも、波がある。

そんなの当たり前。

機械じゃないんだから。

 

なかなか戻ってこない体調に、

揺さぶられた、わたしの弱さを

みつめる。

去年も経験してるのに、

また揺さぶられた愚かさに

寄り添う。

 

失敗させてあげる

どうして失敗が怖いのだろう。

 

失敗したら、恥ずかしい?

失敗したら、笑われる?怒られる?

誰に?

 

子どもに、失敗をさせないようにって

先回りする親もいる。

受験だって、今も昔も

受かりそうな学校をすすめられる。

失敗はなかなかさせてもらえない。

世間にも、そういう風潮がある。

 

わたしが失敗を恐れるのは、

そういう風潮からの影響もある、と思う。

 

失敗を、なぜおそれてたのか?

 

何も考えず、ただ恐れてた。

失敗はしてはならない。

当然のように思ってた。

失敗しないように、

見通しを求める。

見通せることがらじゃないと、やってみようとしない。

道すじが見えないと、不安になる。

 

不自由だった。萎縮していた。

 

自分に、失敗させてあげよう。

やったことをないことをやると、

だいたいは失敗する。

トライアルアンドエラー。

試して、失敗して、

また違う方法でやってみる。

乗り越えたら、力になる。自信になる。

 

失敗したって、

だいたいは、たいしたことない。

取り返しのつかない失敗なんて、

そうそうあるもんじゃない。

たいていの事は、なんとかなる。

安心して、失敗してみればいいんだ。

 

失敗を恐れるのは、

行動の基準が他人だから。

 

軸を自分に戻そう。

やったことのないことをやってみよう。

わたしに失敗をさせてあげよう。

 

 

 

人のぬくもり

人間関係がつらいって思ってた時は、

全然きがついてなかった。

 

嫌われてもいいし、

仲間に入れなくてもいいし、

無理してしゃべらなくてもいい。

 

気の利いたことが、できなくても、

気の利いたことが、言えなくても、

まあ、いいか。

 

そう思うようになってから、

かえって、ちょっとした隙に交わす言葉に、

ぬくもりを感じたりする。

 

急に温かい言葉をかけてくれる人が

増えたわけじゃ、ない。

そこにあった優しさが、見えてなかったんだなぁ。

 

 

嫌なものは、嫌。

嫌なものは、嫌なのだ。

 

こんな当たり前のことを

受け入れるのに、

ずいぶんと時間がかかった。

 

何かを、誰かを、嫌だと思うわたし。

わたしがそんなことをジャッジしていいのか。

そんな迷いがあった。

嫌だと思うことに、罪悪感があった。

 

嫌だと思う、ネガティブな思いが、

自分も他人も傷つけてしまう。

嫌だ、って思ってはいけない。

でも思ってしまう。

どうしたら、嫌だって思わなくなるの?

どうしたら、全てを受け入れることができるの。

 

聖人君子になろうとしていたわ、わたし。

 

聖人君子には、なれないから。

聖人君子になんて、ならなくていいから。

 

関係性の中に生きている。

誰かの支えがあって生きていくことができる。

その中で、迷惑をかけることもあれば、

かけられることもある。

 

理不尽なこともあれば、

意地悪もある。

悪意も存在する。

 

嫌なものは、嫌。

それでいい。

それを認めないと、

それをどうしていくか、対策がたてられない。

 

嫌だと思う気持ちは、どこから来てるのか。

 

自分を守りたいという怒り?

尊厳を侵された怒り?

価値観が違うから?

生理的に受け入れられない?

 

自分のちっちゃなプライドを守るために

感じた怒りだったら、

相手に投げかけたところで、

あまりいい結果にはならない。

ちっちゃなプライドを見つめる方が、先。

 

価値観が違うも、

生理的に嫌だも、

相手は変わらない。

ほっとくしかない。

距離を置けるなら、置こう。

 

権利や、尊厳を侵された。

理不尽だと思うことは、

伝えてみる。

攻撃的にならないように、

感情的にならないように。

 

先日、理不尽だと思うことがあって、

気持ちと意見を伝えた。

今までだったら、言わずに我慢していたと思う。

勇気を持って、言ってみた。

 

伝えただけで、よかった。

相手は変わらなかったけど、

怒りを溜めこまずに済んだ。

 

相手に期待する役割を間違えていたんだな、と気づいた。

期待する役割を、相手が果たしてくれないって

怒りを感じていたけれど、

それを期待する相手ではなかったんだ、と気づいた。

 

怒りが消えた、瞬間。

 

聖人君子ではないわたし。

わたしはわたしなりに、

そうやって、ネガティブな感情に

付き合っていけば、いい。

 

怒られる

〜〜しないと、怒られる。

〜〜しちゃったから、怒られる。

 

なんだか、しょっちゅう

怒られることを、恐れている。

誰に?

 

もう40歳もとっくに過ぎて、

怒られることなんて、そうそうない。

ほとんどない。

怒られたこと、思い出そうと思っても

思い出せない。

たぶん、ない。

 

それなのに、心のどっかに

怒られることを恐れる何かが

埋め込まれている。

 

例えば、

ゴスペルクワイアの、練習日。

あー忙しくって

音源聞いてないわー。

歌詞も覚えてない。

 

怒られないのに、怒られる気分になっちゃう。

覚えておかなくて、

歌えなくって、充分楽しめないのは自分。

だから、楽しむために、覚えるもので、

怒られるから覚えるのでは、ない。

 

それなのに、

怒られるって気分になるのは、なぜ?

 

この、怒られるって恐れを持ってる人、

多い気がする。

 

小さい頃の、育てられ方もあるかな。

怒られたことが多かった。

学校では怒られたことは

あまりなかったけど、

怒られる人を見てたりして、

すりこまれてる、と思う。

 

怒られないようにする。

そういうモチベーションの保ち方は、

健全じゃない。

 

少年野球の子どもたち。

怒られたくなくて、思考が停止する。

とっさの判断ができなくて、

右往左往。

失敗を怖がる、怒られたくないメンタリティ。

見ていて、もどかしい。

 

大人が子どもにぶつける怒り。

大人の都合のいいようにしたい、

ということなんだろうなぁ。

 

だから、40歳を過ぎても、

誰かに怒られると思ってしまう

恐れ、怯えが、

消えない。

 

少年野球の当番。

他の予定も優先させたいから、

減らしてもらう。

その時感じる罪悪感。

 

みんな、怒ってるかも。

そんな恐れを抱く。

怒ってる人もいるかもだけど、

怒ってない人もいる。

 

自分の都合を優先させるのに

罪悪感を感じなくても、いいのに。

感じる同調圧力

 

怒りをぶつける大人も、

怒られるって恐れを抱いている大人も

未熟だな。

もちろん、自分も含めて。

 

こないだ、ある人に意見を伝えた。

怒りは感じてたけど、

極力ぶつけないよう、冷静に

意見と気持ちを伝えた。つもり。

 

そしたらね、もう60歳に近い年齢の方なのに、

反応が、なんというか、

お母さんに叱られた子どものようだなって

感じたの。

 

あ、怒られるって感覚が、

その人のどこかにも、深く根づいているのだな。

と、そんなことを思った。