弱音をはく

素直に、つらいよー、とか

困ってると言える人をすごいと思ってる。

 

そして、つらいんだね〜って

寄り添って聞ける人もすごいと思う。

 

弱音が苦手だ。

 

つらいよー、つらいよー、って言ってる人がいると

なんとかしてあげなくちゃ、と思う。

こうしてみたら?、ああしたらどうだろう?

わたしはこうやってみたよ。

 

大抵は、余計なお世話なのだ。

 

なんとかしてあげなくちゃ、って思うのは、

わたしが、その状況に耐えられないからだ。

 

耐えられなくて、

落としどころを探して、

安心しようとする。

 

相手のことを思ってるフリをして、

自分のこと、なのだ。

 

ずっと、相手のことを考えているのだと

思い込んでいたけど、

そうじゃなかったって、気がついた。

 

弱音を言うときも、

つらいよーつらいよーって言い続けられない。

どこかで切り上げようとする。

言い続けると、相手に見棄てられるんじゃないかって

恐れが頭をよぎる。

 

こうするわ、って解決めいた結論を出して、

終わりにする。

感じ尽くせない、出し切れない、

感情が残る。

 

思い切り弱音を言えるのは、

弱音に寄り添ってあげられるのは、

自分を信頼できるからこそ。

 

いいな、素直に弱音を言える人。

きっと小さい頃から、

つらい気持ち、悲しい気持ち、

悔しい気持ち、

受け止めてもらってきたんだろうなぁ。

 

おとなのわたしが言う。

もう環境のせいにするのは、やめようよ。

 

子どものわたしが言う。

そんなこと言って、

場を収めようとばっかりしてきてる。

そうやってきたから、

つらいんでしょ‼︎

 

子どものわたしの言うとおりだわ。

 

素直に弱音がはける人。

泣いたら、我慢しなさいとか、

くやしがっていたら、嘲笑されたり、

しなかったんだろうな。

つらいとき、

それはあんたに原因があるんじゃないのって

いわれなかったんだろうな。

 

そうなのだ。

わたしはそうやって傷つけられてきたんだ。

つらかったね。

くやしかったね。

悲しかったね。

 

大人の解決なんて、いらないね。

 

寄り添ってもらえなくて、

くすぶっている感情。

過去に戻って寄り添ってもらうことは

叶わない。

今できることは、

わたしがわたしに寄り添ってあげること。

 

そうやって、信頼を取り戻していこう。

 

突然やってきた

音感トレーニングが苦手だった。

二つか三つの和音を、当てるトレーニング。

 

二つの音が混ざって聞こえ、

中間の音を答えてしまったり、

1オクターブ間違えて答えてしまったり。

 

先生には、ちょっとした聴き方のコツなんだよね。

そう言われてきた、一年以上ずっと。

 

それが前回のレッスンも、

昨日のレッスンも、

間違いなく答えることができるように

なっている。

 

先月までできなかったことが、突然できるようになった。

突然耳が良くなった。

 

え⁈、なんで?

特訓とかしてないけど。

でも、うれしーーーーー!!!

戻ったりしないよね〜。

 

そこに思い込みがあることが、よくわかる。

できないことは、特訓しないとできるようにならない。

突然できるようになったりしない。

徐々に上達するものだ。

どうしてできるようになったかわからないものは、

できない状態に戻るかも。

とかね。

 

よく考えたら、

突然のようだけど、

突然できるようになったわけでもない。

ボイストレーニング

一年以上続けてきたでしょ。

 

特訓はしてないけど、

月に2回、通ってやってきたこと、

全く、自分のこと過小評価してるなぁ。

と、思った。

 

もっと

がんばってるわぁ

なかなかよくやってるわぁ

って言ってあげよう。

 

先月までできなくて、

今月できるようになったのは、

ブレイクスルーがあったんだと思う。

 

変化がないようにみえる、

平坦な過程を、

諦めず、くさらず、

コツコツ歩んできたからこそ、

得られたブレイクスルー。

 

当初から、

ダメ出しは一回もなく、

わたしらしさを大事に

トレーニングしてくれる先生。

支えてくれる存在に、感謝。

 

親として、

そういう存在になりたいなぁ。

わたしの中にいるこどもの、親として。

子育て真っ最中の、二人の子どもの、親として。

 

人生を充実させるほどの

子どもの小学校で

読み聞かせボランティアをしている。

 

月に2回の朝の読み聞かせの会。

なるべく参加するようにしている。

今日は、3年生、娘のクラスにおじゃました。

 

読みながら

こどもたちが、物語りにひきこまれていく感じが

伝わってくる。

読み手と聞き手が一体となる、その感じが好き。

それを味わうために、やっているようなものだ。

 

普段は、大勢の前に立って何かをするのは得意じゃない。

それが小学生の前でも、同じ。

でも不思議なことに、

本を読むのは、ぜんぜん平気。

緊張もほとんどしてない。

 

物語りの力だなぁ。

ただわたしの体をとおして、

声にのせて

物語りを届けるだけ。

ただの道具としているだけ。

そこに、わたしはいない。

 

わたしは、聞き手と一緒に物語りの世界にはいっている。

上手に読もうとか、伝えようとか、

失敗したらどうしようとか、

考えながら読んだりしない。

だから、緊張もしないんだと思う。

 

そうすれば、いいんだよなぁ、普段も。

上手にしゃべろうとか、

何かを伝えなきゃとか、考えたりせずに、

よく見せようとか、

気の利いたことをしなくちゃ、などと考えたりせずに、

間違ったらどうしよう、

失敗しないように、などと考えたりせずに、

ただ、居ればいいんだよなぁ。

 

物語りの力を信じているように、

わたしのことも、信じていれば、

いいんだよね。

 

歌の先生の、ブログに、

こんなことが書いてあった。

 

特別な才能がなくても、

何十万人のファンがいなくても、

周りにいる大切な人が

あなたの歌を聴いて喜んでくれるなら、

それは大きな価値があります。

人生を充実させるほどの!

 

歌もそう、

読み聞かせもそう。

周りに喜んでくれる人がいる。

 

わたしの存在だって、

一緒にいることを喜んでくれる人がいる。

特別な才能なんて、なくたって。

そこには大きな価値がある。

人生を充実させるほどの!

ダメ出しは愛のムチ?

子どもを育てるように、
自分の中の子どもに接していこう、
ということを、前回書いた。

否定しないで、
ダメ出ししないで、
まるごと、その存在を認める。

親として、実際に子どもにできてるかというと、
難しいなー。
心がけては、いるのだけど。

欠点はなるべく直さなければならない、
成長しなくてはならない、
という価値観に、結構しばられていた。
まだそこから自由になってはいない。

ダメ出しして、欠点を直して、
成長させる。
ダメ出しは、愛のムチ。
それを、今まで疑わずにきたけれど
そうやって育ったわたしは、
自尊心が低いまま、生きづらさを抱えて
大人になった。

ダメ出しは、愛のムチでは
なさそうだね。

でも、ダメ出しされることを求める気持ちもあるの。
関心を持ってくれてる、
心配をしてくれてる、
それが欲しかったんだと思う。
愛ではないのに、愛だと思ってた。

ダメ出しって、
結局は都合のいいように相手を変えたい。
ってことだったりする。
心配も、
自分の不安を相手に押し付けてる、
だけだったりする。

わたしは、自分に対して、
ダメ出ししてきた。
じぶんをまるごと受け入れていなかった。
自分を都合のいいように変えようとしてた。

何かが欠けてる、何を得ればいいんだろう。
劣等感、罪悪感が漂っている。
なんとなく、不安。
満たされない思い。

何も付け加えなくてもいいよ。
それが、わたし。
いまの、わたし。

どんな自分も自分。
何かが欠けてるなら、欠けてるのがわたしのかたち。
そのまま、欠けたまま、やっていく。
こんなわたしでも、できることがある。

欠けたところを抱えたまま、まるごと受け入れる。

それは、いいところがあるって
褒めて、
頑張ってる、ありのままでいいって
肯定したフリとは違う。

自分って何かを、
深く理解する。
イタイところも、欠けてるところも。
怒りが渦巻いてる醜い部分も。
それを抱えた、まるごとの自分を受け入れる。

今までしてきたことは、
長年のクセになっていることは、
急には、変えられない。
今日だって、ダメ出ししているわたし。

仕方ない。
今のわたしは、そうだということ。

徐々に、自分を受け入れる。
きっと、ダメ出しも減っていく。

自分に対して、
まるごと受け入れることができたら
子どもたちのことも、
自然に、まるごと受け入れることが
できるようになるだろう。

わたしの中の、子どものわたし

ダメ出ししてしまうのが、

長年のクセになっている。

 

他人にも、心の中でするけれど、

自分に対するダメ出しの方が、

圧倒的に多い。

自分と居る時間が圧倒的に多いからね。

自分へのダメ出し、ツラいのだ。

 

ダメ出しすることに、ダメ出しするわたしを、

ダメ出しする………、永遠に続く。

 

ダメ出し、どうしたらやめれるのかなぁ。

模索する日々。

 

自分に自信があれば、ダメ出ししないんじゃないか。

……ダメ出しするたび、自信喪失。

自信がついてく暇がない。

 

なんでもありってことにすればいいんじゃないか。

……勘違いしてるかも、過信してるかも。

不安になってしまう。

 

自分を大事にすればいいんじゃないの。

……だから、ダメ出ししないであげたいんだよーー。

堂々めぐり。

 

なかなか止める方法が見つからない。

 

先日、

「10代の子を持つ親が知っておきたいこと」

という本を読んだ。

うちにも10代の子がいるので、何気なく手に取った本。

 

すごい、すごい!

そうすればいいのか〜。

 

わたしの中の、5歳児のわたしが

「もっと大事にしてよーー」と駄々をこねる。

大事にしてもらえない怒りでいっぱい。

 

わたしの中の、10代のわたしが

「認めてくれない」と拗ねている。

怒りを抑えて、くすぶっている。

 

大人のわたしが、ダメ出ししていた。

そんなに怒っちゃダメですよ。みんなに嫌われちゃうでしょ。

何そんなに甘えてるの。世の中そんなんじゃやっていけないよ。

もっと頑張りなさい。

 

大人は、わかってくれない。

 

そういう気持ちなんだね。

大事にされなくて、腹がたつよね、当然だよね。

今まで、そういうやり方しか知らなかったんだ。

これから、改善する方法を一緒に考えていこうね。

 

大人のわたしが、子どものわたしに

そう言えばいいんだ。

 

そう言ってあげれば、ダメ出しじゃない。

過信でもない。

 

ダメ出しをしてしまうのは、

今までそういう状況にいたから。

そうなって当然だった。

まずそこを認めてあげる。

ダメ出しへのダメ出しは、これで止まる。

 

まだまだ、もっと頑張れって言いたくなったら、

できるようになったこと、

変化してきたことを、

みるようにすればいい。

 

いつだって、最善だと思ってやってきたはず。

それしかできなかった、

それがベストだった。

ダメ出しではなく、さらなる最善を探そう。

 

子どもの成長を信じるように、

自分の成長も信じていく。

 

怒りと付き合う

怒らない人だった。

 

嫌なことがあっても、

自分が悪いのだと思っていた。

 

相手が不機嫌なのは、

相手が怒っているのは、

相手がひどいことをしてくるのは、

わたしの対応がよくなかったからだ。

 

どんなことをすれば、機嫌がよくなってくれるのかな?

どんな風に言えば、怒らせなかったのかな?

どんな風にすれば、ひどいことをやめてくれるのかな?

全部、自分の責任にしていた。

 

「怒ったこととかないでしょう〜」

過去に、結構言われていた。

確かに、なかった。

自分でも、怒りがないんだなって思い込んでた。

 

そんなわけ、ないんだよね。

自分でも気がつかないくらい、

むちゃくちゃ押しこんでただけ。

ないことにしていただけ。

 

後から思うと、

抑えきれずに、はみ出してた怒りが

あちこちで悪さを働いている。

生きづらかったのが、その証拠。

人間関係がツラかったのが、その証拠。

 

 

きっかけは、子育て。

思い通りになんか、絶対にならない、いきもの。

怒りが込み上げてくる。抑えられない。

可愛いのに、憎らしい。

抑えきれない怒りをぶつけてしまう。

子どもの表情が、能面のようになった。

このままだと、わたしがこの子を不幸にしてしまう。

上の子が3歳の頃。

 

今なら、思う。

子どもが、わたしの感情の蓋を開けてくれたのだ、と。

おかげで、ぎゅうぎゅうに押し込められてた怒りが、

やっと日の目をみた。

 

ずっと溜めこまれて、

腐っている怒り。

自分でも辟易するくらい。

 

全部自分の責任にしていたのが、

一転した。

他人に対して、ダメだ、嫌いだ、そこがよくないって

思うことが増えた。

怒りが、急激にあふれだす。

 

ぶつけないように気をつけたつもりだけど、

結果的には

一部の人間関係を、壊してしまった。

 

すべての怒りは、

なんでわたしを大切にしてくれないのっ!

という叫びだ。

 

大切にしてって、他人に求めても、

わたしが思うように応えてくれる人はいない。

 

自分で自分を大切にしてあげる。

そこからしか、始まらない。

 

怒りがまだまだ、溜まってる。

そんな自分も、そうなんだって認める。

 

怒りが溜まってるダメな自分、って言わないよ。

今までそうやって自分をいじめてきた。

これからは、大切にしてあげるんだから。

 

そうやって生き延びてきたんだよね、

それが最善だって思って生き延びてきたんだよね。

もう抑えなくていいんだよ。

出してっていいんだよ。

出しても、他人に撒き散らさないで済む方法を、考えようね。

 

普通になりたい

子どもの頃から、

わたしは「普通」ではない、という思いがあった。

どこかがはみ出ている。

「普通」の人たち中が、居心地が悪かった。

 

なんでわたしは「普通」じゃないんだろう。

「普通」になりたい。

「普通」にあこがれ、

「普通」のふりをした。

 

自分を「普通」になったと思うことは、

一度もない。

 

同時に、「普通」を突き抜けて、

輝いている人にも憧れる。

 

どっちつかず。

どっちにもなれない。

 

立ち止まって考える。

「普通」ってなんだろう。

 

わたしの思う「普通」っていうのは、

多数派のことだ。

大勢が支持することが、

正しいことだと、どこかで思っていた。

多数決でものごとが決まる、

そんなことからも、すりこまれていたのかも。

 

それじゃぁ、「普通」になるということは、

その他大勢になるということだったのか。

大勢の価値観に合わせるということだったのか。

 

自分らしく生きたいと思う気持ちと、

真逆だね。

 

「普通」になりたいと思うと同時に、

自分らしくありたい、とも思っていた。

どっちつかずになる訳だ。

 

今は「普通」になれないことを受け入れている。

わたしは、マイノリティだ。

 

でも、「普通」を突き抜けて、

輝かやいているわけでもない。

そこを目指すと、

今度は「普通」を見下してしまいそうな気がする。

 

「普通」でもない、

「特別」でもない、

わたしは、わたし。