怒りをもて余す

「怒ったこととかないでしょ〜」と

過去に言われたことが、結構ある。

 

子育てをするまでは、

怒りを感じることは、ほとんどなかった。

 

怒りがなかったわけではない。

抑えていたことにも、気がつかずにいただけ。

 

子どもが、わたしの怒りを引き出してくれた。

そこからわたしと怒りとの付き合いが始まった。

 

ない、と思ってた怒りが、

次から次から湧いてくる。

怒りをもて余ました。

子どもが可愛いのに、憎らしい。

このままだと子どもを不幸にしてしまう。

どうにかしなくては。

 

自分で自分を粗末にしていた。

他人に合わせすぎて、

自分が何を感じてるのかわからなくなっていた。

やり場のない感情が、

マグマのように溜まっていたのだった。

 

それから、自分を大事にすることを覚え、

怒りとの付き合いも、少しづつ上手になってきた。

 

感情にいいも悪いもない、と言われたけど、

怒りを持て余した苦い後味。

仏教の本を読むと、

怒りは怒りを呼ぶ、というようなことが書いてある。

 

怒りを捨て去りたい、

どうしたら怒りから自由になれるのか。

10年近く、そんなことを考えてきた。

 

最近、少し考えが変わった。

 

怒りとの付き合いが上手になったと過信してたけど、

抑えている怒りがまだまだあることに気がつく。

抑えてた怒りを成仏させてあげなくては、

進めないかも。

 

出そう。

あるものを、無いことにはできない。

 

抑えられてた古い怒り。

閉じ込められて押さえつけられて、

腐っている。

 

自分でもあんまり見たくない。

でも出さなきゃ、始まらない。

 

そう思ってると、

怒りを誘う出来事が起こったりする。

怒りを出す練習の場が与えられているんだな、

怒りながら、そんなことを思った。

 

へりくだりゲーム②

近ごろの女子は、

小学生のうちから、

へりくだり方を知っている。

 

大きくなるにつれて、

だんだんと高度になっていくんだろうな。

娘とその友達との会話を聞いてて思う。

 

わたしも、中学生の時にはもう、

へりくだりゲームに参加してた。

5〜6年前くらいまでは、参加しつつも

へりくだりゲームに弱いわたしをダメだなぁと思ってた。

 

へりくだりゲームから降りたのは、

自己尊重という言葉を知ってから。

 

自己否定の塊りだったわたし。

自己尊重ってどうするのか、全くわからなかった。

子育てに行き詰まって、苦しくてたどり着いた。

まず母である自分を、尊重する。

 

小さなことでも、

当たり前だと思うことも、褒める。

少しの変化でも、認める。

変化しようとしていることも、褒める。

 

徐々に、自己尊重感って何かがわかってきた。

子どもに対しても、同じようにできるようになっていった。

子どもが、むちゃくちゃ可愛く思えるようになった。

 

その頃から、へりくだりゲームには参加しなくなる。

 

謙譲することを、よしとする社会で、

へりくだることをしないと決めたということは、

人間関係のツールを一つ失ったという事。

ギクシャクも、多々あった。

 

へりくだるというツールを使わなくなって、数年。

最近、少し気持ちに変化があった。

 

必要以上にへりくだることもないけど、

絶対へりくだらないって頑張ることは、

自分のダメな部分を、ちゃんと見てあげてなかった、

ということでもあった。

ダメな部分を、ないものとして扱っていた。

 

へりくだるなんて、

自分がかわいそうと思ってたけど、

ダメな部分をないものとして扱う方が、

かわいそうだったわ。

 

そういう変化があって、

最近は、へりくだりゲームを意識することが減った。

どっちでもよくなってきた。

 

でも、子どもをネタにしたへりくだりゲームには

参加しない。

それは、これからも変わらない。

親の言うことを、子どもは真に受けるのを

知っているから。

 

天気は変えられない

気分が優れない原因なんて
案外、ちょっとしたことかもしれない。

肌寒くって身体がこわばってるだけだったり、
蒸し暑くってイライラしちゃったり、
天気がどんより曇り空だったり、
低気圧が近づいてるせいだったり。

特に何もなくたって、
スカっと晴れた空を見たら、
心も晴れやかになったりする。

どんより曇り空。
あったかいお茶を飲んで
ホッと一息。

蒸し暑い日。
冷たいジンジャーエール
スッキリ。

天気は変えられなくても、
気分は変えられる。

気分が変わらなくても、
いつか天気は変わる。

 

変えるのは、前提だった。

人間関係が、つらかった。

うまく馴染めない自分はダメだと思っていた。

 

嫌われたくなくて、

嫌われるのを恐れて、

他人の顔色をうかがい、

自分を抑える。

 

でも、抑えきれずに、

一番不適切な時に、不適切なことをして、

結局嫌われたりする。

 

抑えきれなかったからだって、後悔して

さらにさらに、抑えつける。

悪循環。

 

間違ったことを言わないように、

印象のいいことを言わなくちゃ、

そう思えば思うほど、

言葉が出てこなくなる。

 

人が集まるところに一緒にいても、

感情を抑えて、

言葉もうまく発せないわたしは、

どこか得体の知れない人。

 

どうしたら、

会話がはずむんだろう。

どうしたら自然体で、

なめらかに言葉が出てくるんだろう。

 

変わりたかった。


自分に自信がないから、
ダメなんだ。
自信がないから、
顔色を窺うし、
自信を持って会話することができないんだ、
と思ってた。

どうしたら自信がつくのか?
いろいろなもので武装していく。
資格を取ってみる。
ものを作ってみる。
何か秀でたものがあれば、
自信になるだろう。
何をすればいいのか、探す日々
やってみては、違う、これも違う。

結局何をやっても、
自信になることはなく、
これは違ったと思うたびに、
ますますダメなんだと、自分を責めることになる。



自分を変えよう変えようとしてたけど、
変えるのは、前提だった。

嫌われてもいい。
失敗してもいい。
間違えてもいい。
自信がなくてもいい。

嫌われても、いいんじゃないの?
そもそも誰に嫌われたくなかったの?
嫌ってる人にまで、嫌われたくないって思ってたわ、わたし。

どうして間違えたらダメって思ってたの?
間違い、失敗、しちゃダメなの?
そもそも間違えたり失敗しないでいるって
無理だわ。

自信って何?
何かができることで、持つ自信は、
できなくなったら失う自信。
人と比べて、上がったり下がったりする自信。
そんな自信はいらない。

自信なくても、やってみる。
本当の自信は、経験が積み重なって、得られるもの。
まず、やってみる。失敗を恐れずに。

前提がかわったら、行動が変わった。

嫌われてもいいし、
間違っても、失敗してもいいのだから、
自分を抑える必要はない。
気持ちが楽になって、
言葉がすんなり出てくるようになった。

きちんとしなくちゃ、と緊張することも
減ってきた。

無理して、他人に合わせることも
減った。

沈黙が怖くなくなった。
喋ることがなければ、喋らなくていい。

できる範囲でいい、
できる時にすればいい。
できなきゃ、誰かに頼めばいい。

前提を変えたら、こんなに楽になる。

行動も変わる。

その積み重ねで、

自分も変わっていくだろう。

自然に、無理することもなく。

あるものでやっていく

少し前のことですが、

ある人にこんなことを言われました。

「もしあなたの目が緑色だけ見えない目だったら、どうする」

 

緑色だけ見えない目。

不便もありそうだし、

山々や森の緑を見られないのはさみしいことだけど、

そういう目なら、それでやっていくしかないな。

そのように思いました。

 

「あなたが欠点だ、短所だと思っているところも同じだよ」と。

 

コミニュケーションが下手なこと、

会話が弾んでいる場にいても、入っていくのが苦手なこと、

そもそもわたしの話すことに、説得力がなくて伝わらない。

というようなことを、その人に話してました。

 

会話が下手なのは、ダメなことで、

会話が上手なことは、よいこと。

そういう価値基準を持って、

どうしたら会話上手になれるのか、と悩んでいたのです。

 

緑色が見えない目は、ダメで、

見える目は、いい。

そんな価値基準はなかったので、

ないなりにやっていく、ということがストンと落ちました。

 

ないものねだりをしても、しょうがない。

 

コミニュケーションが上手で、

周りの人を惹きつけるような話題に豊富で、

いつも人に囲まれて、

説得力ある話ができて、

 

そんな人に、わたしはなれないし、

ならなくていいのです。

他の誰かになろうとしなくていいのです。

 

弾むように、なめらかに喋れなくても、

わたしの、考えながらポツポツ話すことばを、

しっかり聴いてくれる人が、たくさんはいなくても

ちゃんといる。

 

それで充分過ぎるくらいだわ。

そんなことに、今更気づかされた。

なんて愚かだったんだろう。

 

変わらなきゃ病

ずーっと、生きづらくって

楽になりたくって、

変わらなきゃ、変わらなきゃ、

と思っていた。

 

この頃、少し楽になってきて、

なんか、ふと

今まで変わらなきゃ病にかかってたのかも、

と思ったわ。

 

ここを変えれば楽になるってところを、

自分で探してダメ出ししたり、

他人に指摘してもらって、

ああ、やっぱり、まだまだだわ、

なんて思って、

ツライけど、安心したりする。

 

変だよね。

病気だったんだわ。

 

ずーっと、そうやってきたから、

ツライツライと言いながら、

そこが慣れ親しんだ場所になっていたの。

そこに逃げこんでいたの。

 

もうやめる!

ダメ出し、やめる!

脱出する!

へりくだりゲーム

お母さんたちの集まりで

交わされるこんな会話。

 

母A「うちの〇〇、こんなところがホント、ダメなんだよね〜」

母B「そんなことないよ〜、〇〇くんきちんとしてるわよー。

        うちの△△の方が、なってないわよー、だらしなくって」

母A「えー、全然。△△くんこないだ学校で褒められたんでしょー。

        〇〇なんて、もうどんくさくって、イヤになっちゃう」

 

どこまで続くのか、へりくだりゲーム。

相手の子を持ち上げ、

自分の子をより落とした方が、勝ち。

 

子どもの頃、

母が参加していた、へりくだりゲーム。

どんなに傷ついたか。

自分はダメなんだって、真に受けるんだよ、

子どもは。

 

子どもの前でも、平気で繰り広げられる

へりくだりゲーム。

 

お母さんたち、

子どもだった頃、真に受けて傷つかなかったの?

聞き流せたの?

それとも、

子どもの気持ちより、

自分の人間関係の方が大事?