欠落があるから

誰でも、

どんな人でも、

なにがしか欠けているところがある。

 

そうだよねって

きっと誰もが思うのに、

なぜか、完璧を求める。

完璧になろうとする。

無理なのにね。

 

完璧になれるはずもないのに、

追い求めて、

無力感におそわれたり、

自分はダメだって否定したり。

 

欠けたところ、

イタイところ、

歪んだところ。

 

その部分から

さみしさだったり、

不安だったり、

恐れだったり、

嫉妬だったり、

憎しみだったり

罪悪感、劣等感、不信感、

そんなものが湧いてくる。

 

欠けてるところがあるから

生きづらさを感じる。

それも事実。

だから、欠けてるところを埋めようとする。

欠けたところをなくそうと、

完璧をめざす。

 

だけど、

欠けたところがあるから、

人と繋がれる。

協力しあえる。

できないことは、助けを求めるし、

自分の何かできる部分が、

誰かの助けになっていたりする。

 

自分でなんでもできたら、

誰かに助けてもらう必要もなくなるもんね。

 

助けてもらっている、

支えてもらっている、

そう気がつくことができるのも、

欠けてるところがあるから。

 

欠けてる部分は、

人と人を結ぶ魅力であったりもする。

 

欠けてるところを

ダメだと思って

隠そう隠そうとしてきた。

 

隠そうとすればするほど、

人との距離が、離れていく。

人間関係がつらくなって、

ますます、欠けてるところを

埋めようと努力してきた。

 

逆だったなぁ。

欠けてるところ、

イタイところは、

隠そうとしない方が

人と繋がれる。

 

わざわざ曝け出さなくても、

隠そうとしないだけで

全然違う。

見つかったら、

そうよ、それがわたし、と

言える覚悟をしておく。

それだけで、ずいぶん楽になった。

 

生きづらさを感じる、欠落した部分。

なくそうとするのではなくって、

折り合いをつけていけばいいのだとおもう。

 

ついついしてしまうクセや感じ方。

どんな目にあうとどんな気持ちになるのか、

どんな反応をするのか、

それを知る。

自分を知る。

 

クセなら、きっと減らせる。

意識していると、変えていくことができる。

感じ方が変われば、

行動も変わる。

生きやすい方向へ。

 

身体の声を聴く

夏の疲れで、不調が続いていた。

ようやく本調子に戻るかな。

もうちょっとだ。

長かったー。

 

不調といっても、

寝込むほどではなく、

だるくって、動くのが億劫な程度。

足に力が入らない感じがして、

階段も登りたくないなーと思ったりする。

 

でも、そう思っても登ることはできる。

家事も億劫に感じてたけど、

必要なことはした。

 

そんなとき、

だるくっても必要なことやって偉かったね、

とは、なかなかならない。

 

怠けてるんじゃない?

だらしないよ。

やればできるでしょ。

不調が長引けば長引くほど、

頭の中にそういう声が響く。

 

そうやって責めるから、

気持ちが休まらなかったりする。

休むときは、ちゃんと心から休んだ方が

回復は早いような気がするわ。

長引いた原因、それも関係あるかもな、

なんて思ったり。

 

不調があると、

どうしてもそこに注目して、

あー早くこの不具合を取り除きたい、

とそればかりになる。

 

憎っくき、この怠さ

早く消えてなくなれ!

という方向に考えがいく。

 

だけど、そうじゃないんだよなぁ。

疲れてるんですよ、

無理がありましたね、

と教えてくれるシグナル。

 

身体の声に耳を傾けて、

休ませてあげる。

社会性とか、義務感とか、

そんなものに曇らされてる頭の声には、

ちょっと黙ってもらって、

こんな時は、身体の声を聴くことが大事。

 

そろそろ本調子に戻れそうになって、

感じるのは、

普段動いてくれる身体のありがたさ。

 

不調がないと、注目しないけど、

身体はいつだって

動いていてくれる。

ありがたいことなのだ。

当たり前ではないのだ。

 

身体の声を聴く。

無理してましたよ。

疲れがたまってますよ。

 

ありがたく聴いて、

きちんと休む。

 

そして、返事をしよう、身体に。

ありがとう、

いつも動いていてくれて。

助かってるよ。

発散上手

小学校6年生の息子は

野球少年。

 

土日は朝から夕方まで野球をしている。

 

朝出かける時、だいたい不機嫌なことが多い。

今日は、ユニフォームの穴につけた継ぎ当てが

大きすぎると文句を言っていた。

もう半年前につけたものなのだけど。

 

機嫌が悪い日は、必ず試合がある。

特に初めて対戦するチームだったり、

強いチームだったりすると、

いろいろいちゃもんをつけてくる。

 

朝ごはんのおかずが気にくわない、とか

リュックに荷物が入りきらない、とか。

ユニフォームが、どうだの、

スパイクが、どうだの。

なんでもあり。

 

ただ言いたいだけなのがわかってるので、

聞き流すようにしている。

そうやって不安をぶつけているのだ。

 

試合での彼は、落ち着いて、

集中している。

発散が上手だな、と思う。

 

帰ってくるときは、

試合に勝っても負けても、

いつも上機嫌。

勝ったらもちろんだけど、負けても、

楽しかったのが、伝わってくる。

野球が好きなんだね。

 

普段から、発散が上手だな、と思う。

怒る時も、わっ!と怒ってたと思うと

すぐに気持ちが切り替わっている。

 

試合前の不安や、恐れる気持ちを

発散させて出かけていく。

ぶつけられる方としては、

ムカッとすることもあるけれど、

その切り替えの早さ、

発散の上手さは、

うらやましい。

 

今は、まだ小学生。

母親に、そのままぶつけてくるけれど、

そのうち、発散の仕方も洗練してくるだろう。

 

わたしは、感情を出すのが苦手。

発散も上手ではない。

感情を表すとき、

どこまで出したらいいのか、とか

反応を探りながらだったり、

共感してもらいたがったりする。

 

ただ出すというのがなかなか難しい。

 

発散上手な息子を、見習いたいな、と思う。

いままでやってこなかったことは

すぐにはできるようにならないから、

上手に発散できるよう(誰かにぶつけるのではなく)

感情を出していけるよう、

日々、練習だわ。

 

陶酔しすぎない

今日、お友達に誘われて、

「みんなの学校」というドキュメンタリー映画と、

その映画の舞台である大阪の小学校の

当時の校長先生の講演会を聞きに行ってきました。

 

他の学校では、厄介者扱いされて

排除された子や、

不登校の子どもたちが

集まってくる学校。

 

そんな子どもたちが、

安心して通える、

居場所を、

教職員、地域の人、保護者、

子どもたちも

当事者になって作っていく。

 

素晴らしいなー。

子どもの幸せのことを、

将来を見据えて、

真剣に考え向き合っている。

 

感動して帰ってきました。

 

うちの子どもたちの通う学校も、

こんな学校だったらいいのに。

先生たちも、

そうやって子どもたちに向き合って

くれればいいのに。

うちの学校はダメだわ〜。

子どもの担任の先生は、程遠いわ。

 

正直、そう思いました。

 

理想的な先生のお話を聞いて、

感動して、陶酔して、

いい気になってましたね。

 

最近わたしは、

等身大の自分を見つめて

過信しないで、卑下もしないで、

イタい部分を抱えたまま、

行動していくことを学びました。

 

自分をよく見せようとしたり、

立派な自分にならなくちゃとか、

そういう縛りから

自由になりたいと思って、

学び、行動しています。

 

それなのに、

理想的な人の話を聞いて、

同化してしまいました。

 

わたしはちっとも立派じゃない。

人のこと言ってる場合ではない。

 

陶酔しすぎて、それを忘れそうになっちゃった。

 

今の自分にできることを、

ひとつ、ひとつ。

焦らずやっていこうと思います。

 

いい人ってどんな人?

わたしって、いい人だ。

そう素朴に思っていた。

 

いい人なわたし。

相手を優先している、

思うようにしてあげている、

要望に応えている。

そうしていれば嫌われない、

と思っていた。

 

どこかで

いい人のわたしなのだから、

わたしに意地悪くする人はいない、

と思っていた。

なんとなく、そう思っていた。

 

そんなことは、ないのだ。

いい人だから意地悪されない、

いい人だからみんなが大事にしてくれる、

なんてことは、ないのだ。

 

わたしいいひとなのに、意地悪される。

ひどいことを言われる。

なぜだろう?

いい人に対して意地悪する極悪非道な相手。

という図式のできあがり。

単純でおバカさんなわたしだった。

 

自分がなくって、

相手の要望ばかり応えようとするのは、

いい人じゃなくて、

都合のいい人。

 

そもそも

嫌われたくないという動機は不純。

そんな不純な動機で行動する人は

いい人でなんか、なかったりする。

 

いい人であっても、

そうでなくても、

利害が対立すると、

攻撃してくる人はいる。

 

相手の幸せのことしか考えてないような、

素晴らしい人も、

その活動が注目されるようになると、

妬まれたりもする。

 

周りは、関係ないんだ。

周りには、左右されない。

自分がどうするか。

それだけ。

 

そう思えるようになった今も、

時々顔を出す、昔の思い込み。

わたしいい人なんだから、

意地悪されるわけがないって。

 

過信してるわ〜って、苦笑い。

おバカさんだったわたしを、

忘れないでいよう。

夏の疲れ

今年の夏休みは、忙しかった。

後半は、自分でも疲れてるなーと思いながら、

子どもとの約束だったり、

前々からの予定だったりが重なって、

少し無理をした。

 

夏休みが終わったら、体を休めるぞ〜と

意気込んで、休んだ。

1日、2日、休んでもなんか疲れが取れない。

3日間、最低限のことしかしなかった。

でも、身体はだるいまま。

あー、夏バテだわ。

そのあと、予定があってだるいまま出かける。

週末は、炎天下で、お兄ちゃんの野球の応援。

 

次の週、だるさはぬけない。

階段を登るのも、億劫なくらい足に力が入らない。

ダラダラしてるからいけないのか?

と、疑惑がわいてくる。

身体を動かしてみたら、余計疲れた。

 

罪悪感がやってくる。

最低限の家事。

散らかってくる部屋。

だらしないな、と責める気持ちも出てくる。

 

いつまで続くの〜〜〜。

焦る気持ち。

ずっとこのままだったら?

恐れる気持ち。

 

罪悪感も、自分を責める気持ちも、

焦りも恐れも

感じながら、

それも否定せず、

身体を休めた。

感じるものは、感じるのだ。

 

そうやって、約2週間。

気温も涼しくなり、

だるさがやっと抜けて来た。

足に力が入る。

身体もうごく。

ありがたい。

 

長かったわ。

夏の終わりは、苦手。

そういえば、去年の今ごろも夏バテだった。

すっかり忘れていた。

去年はもっと罪悪感があったし、

だらしないって自分を責めてた。

 

体調にも、波がある。

そんなの当たり前。

機械じゃないんだから。

 

なかなか戻ってこない体調に、

揺さぶられた、わたしの弱さを

みつめる。

去年も経験してるのに、

また揺さぶられた愚かさに

寄り添う。

 

失敗させてあげる

どうして失敗が怖いのだろう。

 

失敗したら、恥ずかしい?

失敗したら、笑われる?怒られる?

誰に?

 

子どもに、失敗をさせないようにって

先回りする親もいる。

受験だって、今も昔も

受かりそうな学校をすすめられる。

失敗はなかなかさせてもらえない。

世間にも、そういう風潮がある。

 

わたしが失敗を恐れるのは、

そういう風潮からの影響もある、と思う。

 

失敗を、なぜおそれてたのか?

 

何も考えず、ただ恐れてた。

失敗はしてはならない。

当然のように思ってた。

失敗しないように、

見通しを求める。

見通せることがらじゃないと、やってみようとしない。

道すじが見えないと、不安になる。

 

不自由だった。萎縮していた。

 

自分に、失敗させてあげよう。

やったことをないことをやると、

だいたいは失敗する。

トライアルアンドエラー。

試して、失敗して、

また違う方法でやってみる。

乗り越えたら、力になる。自信になる。

 

失敗したって、

だいたいは、たいしたことない。

取り返しのつかない失敗なんて、

そうそうあるもんじゃない。

たいていの事は、なんとかなる。

安心して、失敗してみればいいんだ。

 

失敗を恐れるのは、

行動の基準が他人だから。

 

軸を自分に戻そう。

やったことのないことをやってみよう。

わたしに失敗をさせてあげよう。