人のぬくもり

人間関係がつらいって思ってた時は、

全然きがついてなかった。

 

嫌われてもいいし、

仲間に入れなくてもいいし、

無理してしゃべらなくてもいい。

 

気の利いたことが、できなくても、

気の利いたことが、言えなくても、

まあ、いいか。

 

そう思うようになってから、

かえって、ちょっとした隙に交わす言葉に、

ぬくもりを感じたりする。

 

急に温かい言葉をかけてくれる人が

増えたわけじゃ、ない。

そこにあった優しさが、見えてなかったんだなぁ。

 

 

嫌なものは、嫌。

嫌なものは、嫌なのだ。

 

こんな当たり前のことを

受け入れるのに、

ずいぶんと時間がかかった。

 

何かを、誰かを、嫌だと思うわたし。

わたしがそんなことをジャッジしていいのか。

そんな迷いがあった。

嫌だと思うことに、罪悪感があった。

 

嫌だと思う、ネガティブな思いが、

自分も他人も傷つけてしまう。

嫌だ、って思ってはいけない。

でも思ってしまう。

どうしたら、嫌だって思わなくなるの?

どうしたら、全てを受け入れることができるの。

 

聖人君子になろうとしていたわ、わたし。

 

聖人君子には、なれないから。

聖人君子になんて、ならなくていいから。

 

関係性の中に生きている。

誰かの支えがあって生きていくことができる。

その中で、迷惑をかけることもあれば、

かけられることもある。

 

理不尽なこともあれば、

意地悪もある。

悪意も存在する。

 

嫌なものは、嫌。

それでいい。

それを認めないと、

それをどうしていくか、対策がたてられない。

 

嫌だと思う気持ちは、どこから来てるのか。

 

自分を守りたいという怒り?

尊厳を侵された怒り?

価値観が違うから?

生理的に受け入れられない?

 

自分のちっちゃなプライドを守るために

感じた怒りだったら、

相手に投げかけたところで、

あまりいい結果にはならない。

ちっちゃなプライドを見つめる方が、先。

 

価値観が違うも、

生理的に嫌だも、

相手は変わらない。

ほっとくしかない。

距離を置けるなら、置こう。

 

権利や、尊厳を侵された。

理不尽だと思うことは、

伝えてみる。

攻撃的にならないように、

感情的にならないように。

 

先日、理不尽だと思うことがあって、

気持ちと意見を伝えた。

今までだったら、言わずに我慢していたと思う。

勇気を持って、言ってみた。

 

伝えただけで、よかった。

相手は変わらなかったけど、

怒りを溜めこまずに済んだ。

 

相手に期待する役割を間違えていたんだな、と気づいた。

期待する役割を、相手が果たしてくれないって

怒りを感じていたけれど、

それを期待する相手ではなかったんだ、と気づいた。

 

怒りが消えた、瞬間。

 

聖人君子ではないわたし。

わたしはわたしなりに、

そうやって、ネガティブな感情に

付き合っていけば、いい。

 

怒られる

〜〜しないと、怒られる。

〜〜しちゃったから、怒られる。

 

なんだか、しょっちゅう

怒られることを、恐れている。

誰に?

 

もう40歳もとっくに過ぎて、

怒られることなんて、そうそうない。

ほとんどない。

怒られたこと、思い出そうと思っても

思い出せない。

たぶん、ない。

 

それなのに、心のどっかに

怒られることを恐れる何かが

埋め込まれている。

 

例えば、

ゴスペルクワイアの、練習日。

あー忙しくって

音源聞いてないわー。

歌詞も覚えてない。

 

怒られないのに、怒られる気分になっちゃう。

覚えておかなくて、

歌えなくって、充分楽しめないのは自分。

だから、楽しむために、覚えるもので、

怒られるから覚えるのでは、ない。

 

それなのに、

怒られるって気分になるのは、なぜ?

 

この、怒られるって恐れを持ってる人、

多い気がする。

 

小さい頃の、育てられ方もあるかな。

怒られたことが多かった。

学校では怒られたことは

あまりなかったけど、

怒られる人を見てたりして、

すりこまれてる、と思う。

 

怒られないようにする。

そういうモチベーションの保ち方は、

健全じゃない。

 

少年野球の子どもたち。

怒られたくなくて、思考が停止する。

とっさの判断ができなくて、

右往左往。

失敗を怖がる、怒られたくないメンタリティ。

見ていて、もどかしい。

 

大人が子どもにぶつける怒り。

大人の都合のいいようにしたい、

ということなんだろうなぁ。

 

だから、40歳を過ぎても、

誰かに怒られると思ってしまう

恐れ、怯えが、

消えない。

 

少年野球の当番。

他の予定も優先させたいから、

減らしてもらう。

その時感じる罪悪感。

 

みんな、怒ってるかも。

そんな恐れを抱く。

怒ってる人もいるかもだけど、

怒ってない人もいる。

 

自分の都合を優先させるのに

罪悪感を感じなくても、いいのに。

感じる同調圧力

 

怒りをぶつける大人も、

怒られるって恐れを抱いている大人も

未熟だな。

もちろん、自分も含めて。

 

こないだ、ある人に意見を伝えた。

怒りは感じてたけど、

極力ぶつけないよう、冷静に

意見と気持ちを伝えた。つもり。

 

そしたらね、もう60歳に近い年齢の方なのに、

反応が、なんというか、

お母さんに叱られた子どものようだなって

感じたの。

 

あ、怒られるって感覚が、

その人のどこかにも、深く根づいているのだな。

と、そんなことを思った。

 

弱音をはく

素直に、つらいよー、とか

困ってると言える人をすごいと思ってる。

 

そして、つらいんだね〜って

寄り添って聞ける人もすごいと思う。

 

弱音が苦手だ。

 

つらいよー、つらいよー、って言ってる人がいると

なんとかしてあげなくちゃ、と思う。

こうしてみたら?、ああしたらどうだろう?

わたしはこうやってみたよ。

 

大抵は、余計なお世話なのだ。

 

なんとかしてあげなくちゃ、って思うのは、

わたしが、その状況に耐えられないからだ。

 

耐えられなくて、

落としどころを探して、

安心しようとする。

 

相手のことを思ってるフリをして、

自分のこと、なのだ。

 

ずっと、相手のことを考えているのだと

思い込んでいたけど、

そうじゃなかったって、気がついた。

 

弱音を言うときも、

つらいよーつらいよーって言い続けられない。

どこかで切り上げようとする。

言い続けると、相手に見棄てられるんじゃないかって

恐れが頭をよぎる。

 

こうするわ、って解決めいた結論を出して、

終わりにする。

感じ尽くせない、出し切れない、

感情が残る。

 

思い切り弱音を言えるのは、

弱音に寄り添ってあげられるのは、

自分を信頼できるからこそ。

 

いいな、素直に弱音を言える人。

きっと小さい頃から、

つらい気持ち、悲しい気持ち、

悔しい気持ち、

受け止めてもらってきたんだろうなぁ。

 

おとなのわたしが言う。

もう環境のせいにするのは、やめようよ。

 

子どものわたしが言う。

そんなこと言って、

場を収めようとばっかりしてきてる。

そうやってきたから、

つらいんでしょ‼︎

 

子どものわたしの言うとおりだわ。

 

素直に弱音がはける人。

泣いたら、我慢しなさいとか、

くやしがっていたら、嘲笑されたり、

しなかったんだろうな。

つらいとき、

それはあんたに原因があるんじゃないのって

いわれなかったんだろうな。

 

そうなのだ。

わたしはそうやって傷つけられてきたんだ。

つらかったね。

くやしかったね。

悲しかったね。

 

大人の解決なんて、いらないね。

 

寄り添ってもらえなくて、

くすぶっている感情。

過去に戻って寄り添ってもらうことは

叶わない。

今できることは、

わたしがわたしに寄り添ってあげること。

 

そうやって、信頼を取り戻していこう。

 

突然やってきた

音感トレーニングが苦手だった。

二つか三つの和音を、当てるトレーニング。

 

二つの音が混ざって聞こえ、

中間の音を答えてしまったり、

1オクターブ間違えて答えてしまったり。

 

先生には、ちょっとした聴き方のコツなんだよね。

そう言われてきた、一年以上ずっと。

 

それが前回のレッスンも、

昨日のレッスンも、

間違いなく答えることができるように

なっている。

 

先月までできなかったことが、突然できるようになった。

突然耳が良くなった。

 

え⁈、なんで?

特訓とかしてないけど。

でも、うれしーーーーー!!!

戻ったりしないよね〜。

 

そこに思い込みがあることが、よくわかる。

できないことは、特訓しないとできるようにならない。

突然できるようになったりしない。

徐々に上達するものだ。

どうしてできるようになったかわからないものは、

できない状態に戻るかも。

とかね。

 

よく考えたら、

突然のようだけど、

突然できるようになったわけでもない。

ボイストレーニング

一年以上続けてきたでしょ。

 

特訓はしてないけど、

月に2回、通ってやってきたこと、

全く、自分のこと過小評価してるなぁ。

と、思った。

 

もっと

がんばってるわぁ

なかなかよくやってるわぁ

って言ってあげよう。

 

先月までできなくて、

今月できるようになったのは、

ブレイクスルーがあったんだと思う。

 

変化がないようにみえる、

平坦な過程を、

諦めず、くさらず、

コツコツ歩んできたからこそ、

得られたブレイクスルー。

 

当初から、

ダメ出しは一回もなく、

わたしらしさを大事に

トレーニングしてくれる先生。

支えてくれる存在に、感謝。

 

親として、

そういう存在になりたいなぁ。

わたしの中にいるこどもの、親として。

子育て真っ最中の、二人の子どもの、親として。

 

人生を充実させるほどの

子どもの小学校で

読み聞かせボランティアをしている。

 

月に2回の朝の読み聞かせの会。

なるべく参加するようにしている。

今日は、3年生、娘のクラスにおじゃました。

 

読みながら

こどもたちが、物語りにひきこまれていく感じが

伝わってくる。

読み手と聞き手が一体となる、その感じが好き。

それを味わうために、やっているようなものだ。

 

普段は、大勢の前に立って何かをするのは得意じゃない。

それが小学生の前でも、同じ。

でも不思議なことに、

本を読むのは、ぜんぜん平気。

緊張もほとんどしてない。

 

物語りの力だなぁ。

ただわたしの体をとおして、

声にのせて

物語りを届けるだけ。

ただの道具としているだけ。

そこに、わたしはいない。

 

わたしは、聞き手と一緒に物語りの世界にはいっている。

上手に読もうとか、伝えようとか、

失敗したらどうしようとか、

考えながら読んだりしない。

だから、緊張もしないんだと思う。

 

そうすれば、いいんだよなぁ、普段も。

上手にしゃべろうとか、

何かを伝えなきゃとか、考えたりせずに、

よく見せようとか、

気の利いたことをしなくちゃ、などと考えたりせずに、

間違ったらどうしよう、

失敗しないように、などと考えたりせずに、

ただ、居ればいいんだよなぁ。

 

物語りの力を信じているように、

わたしのことも、信じていれば、

いいんだよね。

 

歌の先生の、ブログに、

こんなことが書いてあった。

 

特別な才能がなくても、

何十万人のファンがいなくても、

周りにいる大切な人が

あなたの歌を聴いて喜んでくれるなら、

それは大きな価値があります。

人生を充実させるほどの!

 

歌もそう、

読み聞かせもそう。

周りに喜んでくれる人がいる。

 

わたしの存在だって、

一緒にいることを喜んでくれる人がいる。

特別な才能なんて、なくたって。

そこには大きな価値がある。

人生を充実させるほどの!

ダメ出しは愛のムチ?

子どもを育てるように、
自分の中の子どもに接していこう、
ということを、前回書いた。

否定しないで、
ダメ出ししないで、
まるごと、その存在を認める。

親として、実際に子どもにできてるかというと、
難しいなー。
心がけては、いるのだけど。

欠点はなるべく直さなければならない、
成長しなくてはならない、
という価値観に、結構しばられていた。
まだそこから自由になってはいない。

ダメ出しして、欠点を直して、
成長させる。
ダメ出しは、愛のムチ。
それを、今まで疑わずにきたけれど
そうやって育ったわたしは、
自尊心が低いまま、生きづらさを抱えて
大人になった。

ダメ出しは、愛のムチでは
なさそうだね。

でも、ダメ出しされることを求める気持ちもあるの。
関心を持ってくれてる、
心配をしてくれてる、
それが欲しかったんだと思う。
愛ではないのに、愛だと思ってた。

ダメ出しって、
結局は都合のいいように相手を変えたい。
ってことだったりする。
心配も、
自分の不安を相手に押し付けてる、
だけだったりする。

わたしは、自分に対して、
ダメ出ししてきた。
じぶんをまるごと受け入れていなかった。
自分を都合のいいように変えようとしてた。

何かが欠けてる、何を得ればいいんだろう。
劣等感、罪悪感が漂っている。
なんとなく、不安。
満たされない思い。

何も付け加えなくてもいいよ。
それが、わたし。
いまの、わたし。

どんな自分も自分。
何かが欠けてるなら、欠けてるのがわたしのかたち。
そのまま、欠けたまま、やっていく。
こんなわたしでも、できることがある。

欠けたところを抱えたまま、まるごと受け入れる。

それは、いいところがあるって
褒めて、
頑張ってる、ありのままでいいって
肯定したフリとは違う。

自分って何かを、
深く理解する。
イタイところも、欠けてるところも。
怒りが渦巻いてる醜い部分も。
それを抱えた、まるごとの自分を受け入れる。

今までしてきたことは、
長年のクセになっていることは、
急には、変えられない。
今日だって、ダメ出ししているわたし。

仕方ない。
今のわたしは、そうだということ。

徐々に、自分を受け入れる。
きっと、ダメ出しも減っていく。

自分に対して、
まるごと受け入れることができたら
子どもたちのことも、
自然に、まるごと受け入れることが
できるようになるだろう。