自分に甘い

うちの長男、中学一年生。

勉強、必要最低限だけ。

野球の自主練、言われてもしない。

 

とっても自分に甘い。

 

親から見て、(親の欲目だけど)

いいもの持っているのに、って思う。

やれば、もっとできるのに。

 

まぁ親が焦ってもしょうがない。

親が強制的にさせても、

あんまりいい結果にはならないだろうしなぁ。

 

本人がやる気になるのを

待つしかない。

 

自分に甘いっていうのも

悪いことではない。

最近そう思うようになってきた。

 

わたしは、自分に厳しく

自分を責めてきてた。

そういう生き方は、とてもつらい。

どこまでやっても、責め続ける。

上には上がいて、限りがない。

へとへとになるまでやっても、責め続ける。

気持ちが休まらなかった。

 

疲れ果てて、イライラして、

人間関係もツラくなって、

このままじゃダメだって気がついて、

今は、自分のココロの声を聴く練習中。

自分を甘やかす。

 

やりたいことをする。

やるたくないことはしない。

食べたくなったら食べる。

食べたくない時は食べない。

眠たくなったら、さっさと寝る。

 

自分に厳しかったときのクセで、

こんなんでいいのかなぁ?

大丈夫かなぁ?って

思うときもある。

それが子どもに向かう時もある。

 

自分を、もっと信頼しようよ。

子どもも、もっと信頼しようよ。

 

責める気持ちになるときは、

型にはめようとしている。

理想の自分、理想の子どもという型。

今現在の姿から遠ざかるばかり。

 

コントロールできると過信もしている。

こうしたら、こうなる。

こう言ったら、こう動く。

 

そうやってコントロールできると、思い込んでいた。

でも、生身の人間、そんなにうまくいくはずがない。

子どもに対しても、自分もに対しても。

 

子どもには、子どもの人生がある。

必要だと思ったときに、頑張るだろう。

その力を持っていると、信じる。

その力を削がないように、気をつける。

 

やりたい気持ちが起こらないとき、

自分を責めてしまうとき、

自分を甘やかすことを、自分に許そう。

今まで責め続けて、へとへとだったんだから、

休むことも必要だよ。

力を蓄えているんだよ。

 

新しい人間関係

4月に子どもが中学校に進学した。

 

野球も続けたいと、

小学校を卒業する前から

クラブチームに加入した。

保護者同士の人間関係も、

新しくなった。

 

わたしは基本的に人見知り。

大勢でワイワイするのは苦手で、

家にひとりでいる方が好き。

 

輪の中に入るのは、苦手。

今までは、輪の中に入れない自分を

ダメだなぁと責めていた。

 

チームに入って、半年余り。

輪の中にいない自分を責めていないのに気づく。

程よい距離で、

新しい人間関係を築いてこれたな、と思う。

自分を責めない、

それだけでも、だいぶ楽にしていられる。

 

いい人が多いけど、

いい人ばかりではない。

一方的に強制してくる人もいる。

愚痴や悪口を言う人もいる。

大勢集まれば、いろんな人がいる。

 

いちいち、巻き込まれなくなった。

そういう人なんだな。

それで、おしまい。

 

なんで前は、あんなに反応していていたのか。

一歩的な人に、反発したり、

冷たくされると、気になってしまったり、

悪口言われないようにって同調したり。

 

不安だったんだなぁと思う。

輪の中にいなくては、と思ってた。

仲良くやっていかなくては、と思ってた。

 

輪の中にいなくても、大丈夫。

何にも問題はないわ。

 

友だちを作るためにいるわけじゃ、

ないんだよね。

子どもたちが野球ができるように、

協力できたら、それでじゅうぶん。

協力しあえる関係を築いたら、

他のことは、おまけみたいなもの。

 

チームの保護者として出会って、

友だちになれたら、

それはすばらしいけど、

そうでなくても、困りはしない。

記憶と記録

しばらくブログから遠ざかっていたのだけど、

ふと、また書いてみようかなと思って、

再開してみた。

 

今まで書いてたブログも、

読み直してみる。

 

あ、一年前はこんなこと思ってたんだ。

変化していた、わたしを発見。

 

再開する前まで、

落ち込んだり、ちょっと投げやりだったり、

できないわたしを、もどかしく思っていたり。

自分に優しくできてなかった。

 

たった一年前からみても、

変化がある。

頑張ってきてたんだな。

そんなことに、改めて気がついた。

 

記録に残しておくことは、

ものすごく大事なこと。

 

つらい状況をなんとかしようと、

変わろうと、

よりよく生きようと、

一歩一歩進んできた道を、

残しておかないと忘れてしまう。

 

変化なんてしてないような気がして、

いつまでたっても、

ダメな自分、できない自分って思ってしまう。

変化は記憶に残らない。

 

完璧ではないけど、

確実に進んでる。

記録に残しておいたから、気がつけた。

 

ちゃんと続けよう。

未来の自分のためにも。

古い怒り

イライラする。

最近は抑えようとは思ってない

イライラを感じ尽くそう。と思っている。

 

何にイライラするのか。

些細なことだと、思う。

心が狭いなぁ、と思う。

 

寛容になれない。

イライラの種が、発芽する。

たくさんためこまれてる、イライラの種。

 

小さい時から、

たぶん赤ちゃんの頃から、

怒りをためこんできた。

そして、抑えてきた。

それがイライラの種。

たくさんためこまれてる怒りの種。

 

イライラする。

我慢してきたココロが、またなの⁈って怒ってる。

なんで思う通りにならないの⁈って怒っている。

 

他人は思う通りになんて、ならないのにね。

その人は、その人の考えで、

その人の正しさで、生きているだけ。

それがわたしの考えと違うからって、

怒るのは、筋違いだ。

 

小さい頃、失敗を怒られた記憶。

上手くできなかったことを笑われた記憶。

傷みになっている。

他人の失敗が、引き金になってイライラしたりする。

誰にでも、失敗はあるのに。

 

頭ではわかる。

でも、種があるから、

条件さえあえば、発芽してしまう。

 

昨日も、ちょっとしたことにイライラした。

子どもの、小さな小さな失敗。

イライラしたけど、

怒らず、冷静に、対処できた。

 

あー、よかったなぁ。

子どもを傷つけずに済んだ。

おおごとにせずに済んだ。

 

そうやって、ひとつひとつ摘み取っていこう。

たまってしまった怒りは、ないものにはできないから。

イライラする自分も認めて、

イライラしても、他人を傷つけないように気をつけて。

 

イライラしても、上手く対処できたら、

自信になる。

次もこうすればいいってわかってくる。

怒りをぶつけた時の、やり切れなさを思うと

そんな事態を回避できたことに、ほっとする。

 

ひとつひとつ、古い怒りを出していく。

イライラの種を、摘み取っていく。

 

種は、発芽しないとどこに埋まってるかわからない。

だから、イライラは種を摘み取るチャンス。

発芽したら、即摘み取る。

怒りが大きく育つ前に。

 

古い怒りを、そうやって出していこう。

出し切っていこう。

 

きっと、そうやっていけば

滅多にイライラしなくなる。

寛容になれる。

そんな日がくる。

楽しいことが、楽しめない。

楽しくてやっているはずのことが、

楽しめなくなる時がある。

 

それは、他人と比べてしまう時。

評価が気になる時。

なんで比べるかなぁ?

なんで評価して欲しくなるのかなぁ?

 

例えば、歌。

ほんの2年ほど前に、

突然歌ってみようと思いたって始めた歌。

積み重ねがあったわけでもなく、

1から始めたわたしが、

長く歌っている人と比べたってしょうがない。

小さい頃から、歌うことを楽しんできた人と

土台が違う。

 

頭でわかってても、

つい比べる。引け目に感じる。

そうなったら、楽しくない。

 

ただ歌っているときは、楽しい。

どうやったら、上手く歌えるのかなって

考えながら歌うのも、楽しい。

なかなか歌えなかった部分が、歌えるようになったら

ものすごく楽しい。

 

2年間歌ってきて、だいぶ歌えるようになってきた。

声も大きくなったし、

息もだいぶ使えるようになってきた。

 

そうすると、つい評価して欲しくなっちゃう。

上手だねとか、上手になったねとか、言われたいなぁと。

そんなココロがむくむく湧いてくると、要注意!

そうなったら、楽しくなくなってしまう。

 

本当に上手になってるのか?とか不安になったり。

いくら上手になったっていっても、

別に大したことないし。まだまだだし。

 

あーあー、台無し。

 

楽しいこと、純粋に楽しめばいいのにね。

承認欲求、強すぎるわ!

気づくまで

すべては、わたし自身が引き起こしたこと。

壊しちゃった人間関係。

切り捨てられた人間関係。

 

なんで⁈って

その時は思ったよ。

ひどい人って

相手が悪いと思ったよ。

 

今でも、その人を

その人たちを、

好きにはなれない。

 

だけど、今ならわかる。

その人たちが

とても愚かで、どうしようもなくって、

そんな悪い相手に出会ってしまったから

わたしは被害を受けた、訳ではない。

 

その人の言葉に態度に、

反応したのは、わたし。

まぎれもない、このわたし。

 

そんな反応をしなかったら、

たぶん結果は違っていた。

 

つらい出来事。

なんでこんなことにって、

忘れることもできずに、

数年ひきづった。

 

許す、とも違う。

忘れた、という訳でもない。

謝りたい、でもないけれど。

 

わたしだなって思う。

わたしが引き起こした出来事。

わたしが引き寄せた出来事。

 

わたしの愚かなところ、

醜いところがあぶり出される。

こんな業を抱えていた。

見えなかった部分、

隠されていたものが、

露わになっていく。

 

見せてくれた。

気がつかせてくれた。

 

いざこざがなければ、

つらい年月がなければ、

気がつけなかった自分のイタイ部分。

 

気がつかなければ、

隠したまま、イタイまま

また同じ反応を繰り返していたはず。

 

すべてが起こるべく、起こる。

気がつくまで、繰り返し、

似たような出来事が起こり、

似たような人たちに出会う。

 

心ないことを言う人、

ひどい態度を取る人、

何かを強制したがる人、

 

放っておけばいい。

関わらなければいい。

受け流せばいい。

逃げちゃえばいい。

 

その人のひどい言葉を

冷たい態度を

上から目線を、

ひどい、冷たい、上から見下してる、

と反応していたのは、わたし。

 

その人の、

醜いところ、愚かなところ、イタイところ、

それをどうするかは、

その人の課題。

わたしには関係ない。

 

わたしはわたしの、

醜さ、愚かさ、イタさに

向き合っていくしかない。

 

人間関係のいざこざ、

つらい出来事。

でもそれは、気づきをもたらすギフトだった。

 

そうとは気づかず、

相手が悪いって決めつけて、

自分のこととして考えられず、

受け取り拒否してた日々。

 

受け取りを拒否すると、

何度でも、形を変えて送られてくる。

 

傷みを持って、自分のことととして受け入れる。

そしたら、気づきという大きなギフトが受け取れた。

もう、同じつらさは送られてこない、と思う。

 

不人気ものでいこう?

周りにいる人たちから、

好かれていたいって気持ち、やっぱりある。

 

無理に好かれなくてもいいし、

嫌われることを恐れないのも大事って、

知った後でも、好かれていたいと思う気持ちは残っている。

 

好かれていたい、誰からも。

嫌いな人からも、好かれていたいって思ってたりする。

虫のいい話だけど。

 

あんまり人気ないから、

そういう思いが、消えないのかもね。

 

でも、いいんだ。

そんな自分も、しょうがなく、愛おしい。

 

映画を見た。

『先生と迷い猫』

イッセイ尾形が演じる元校長先生は

奥さんを亡くし、一人暮らし。

偏屈で、態度も偉そうだし、

肝心なところで言葉が少なくて、

不人気だ。

 

だけど、そんな不器用なところとか

一生懸命なあまりに起こす変な行動とか、

しみじみと、その存在の持つ可笑しみがにじみでている。

 

他人は、表面しか見ない。

よっぽど近しい相手でない限り、

接した一部だけしか、見ないし、

その後ろにある背景までは、見えない。

 

先生の偏屈なところだけ見て、

影で笑ったり、悪口を言ったりしている人には、

先生の優しさやユーモアは見えない。

 

関わる全ての人の、背景を知ることもないし、

背景を全て知ってもらう必要もない。

 

わたしの表面しか見ない人から

好かれてなくても、

いいんだよなぁ。

 

不器用でさ、右往左往して、

あっちぶつかり、こっちぶつかり、

なんだか、もがきながら生きているけど、

それはそれで良いと思う。

 

不器用で、歪んでるところのあるわたしを

大事にしてくれる人がいる。

そのありがたさ。

 

好かれたいって思う気持ちは、

きっと、何かの穴うめのようなもの。

承認欲求だ。

たくさんの人から好かれてるということが、

認められてるって基準になる気がするんだね。

 

人に認めてもらわなくても、

自分で自分を認めていれば、

それでいい。

 

自分で自分を認めていれば、

それでじゅうぶん。

 

自分の背景を一番よく知っているのは、

自分だから。