やってみた①

今まで、やったことのないことを

やってみる。

自分で作った枠から出るために。

 

今回は、

「一人でカラオケに行く。」

 

一人でカラオケなんて、

さみしい人だって思われるかも。

それともよっぽど好きなのかって思われちゃう。

そう思って躊躇してました。はいっ!

 

行きましたよ。ひとりで。

しかも土曜の夜。

急いで夕食を終わらせ、お風呂にも入って、

洗濯物を洗濯機にかけて、

子どもたちにおやすみを言って、

出かけました。

 

やってみたら、なんてことないの。

ひとりでさみしい人なんだって思われたって、

よっぽど好きなんだなって思われたって、

別にどうということもない。

そもそも、そんなに見てないでしょう。

自意識過剰すぎでした。

 

誰に気兼ねすることなく、

思い切り歌いまくって

楽しかった〜〜〜。

 

おまけに、わたしが出かけられるよう、

夫はお茶碗を洗ってくれて、

子どもたちは洗濯物を干してくれた。

家族の支えを実感することもできました。

 

取り戻せる

子どもの頃、

歌っていると

親に、音程がハズレてるとか

オンチだとか、

さんざん言われて歌うのがすっかり嫌になった。

 

音楽の授業もキライ。

歌うときは、なるべく小さな声でごにょごにょ歌う。

カラオケ誘われても、歌わない。

 

歌うようになったのは、最近のこと。

ちょっとしたきっかけで、

歌を習い始め、

ゴスペルのクワイヤにも入った。

歌うことって気持ちがいい。

ステージにも立って歌っちゃった。

 

あーあー、もったいなかったな

と思う。

もっと早くこの楽しみを知っていたら。

なんて、考えてもしょうがないけどね。

 

苦手だと思って避けていたこと、

しなかったこと。

やってみたら、案外できたり、

楽しかったりする。

 

高校の登山遠足の時、

最後尾でやっとのことで登った山。

二度と登山なんかしない‼️って思ってけど、

約25年ぶりに登ってみたら、楽しかった〜。

高校生の時より体力があるのかも。

あの頃、結構いろんなことにヘトヘトだったし。

 

運動も苦手で避けてた分野。

子どもがスノーボードをしたいって言い出したとき、

一緒に始めちゃった。

急斜面は怖くてムリだけど、

中級コースなら、滑って降りられるの。

風を切って滑る。心地よい。

 

取り戻せるんだなぁ。

 

できなかったこと、してこなかったこと、

他にもまだまだあるけど、

心のどこかにひっかかってたことは、

きっとやりたかったこと。

 

コンプレックスは可能性の宝庫だよって

教わった。

そうだなぁって思う。

 

コンプレックスを洗い出して、

並べてみる。

過去に遡って、忘れてたことも思い出す。

 

どうにもならないこともある。

例えば、背が低いこと、足が短いこと。

そういうのは、受け入れる。

 

他人の目を気にしてよく思われたい、とか

顔色をうかがってしまう、とか

もういらないなと思うものは、

手放せるように、自覚して改善する。

 

そうやって仕分けして、

残ったものをとりくんでみる。

歌もそう。

身体を動かすこともそう。

キレイになりたいなっていうのも、できることはある。

 

まだまだ可能性があるじゃないか、わたし。

劣等感、隠してる場合ではなかったわ。

 

はやくやっておけばよかったなって、

思う気持ちもあるけれど、

これが70歳80歳だったら、

もっとハードルは高かった。

気力も体力も、今よりも少なくなっている。

 

気がついたのが、

今でよかった。

そして、先延ばしにする時間は残ってない。

 

行動あるのみ‼️

 

自然体

他人の顔色うかがって、

おどおど、ビクビクしてたから、

のびのびとリラックスして自然にふるまえる人、

憧れてしまう。

 

いま、そうできるようになるための練習中。

 

自分の感情を大事に、

欲求に素直にしたがうことに決めた。

 

ところが、長い間自分の気持ちを抑えて、

自分の欲求よりも、

他人にどう思われるかが、行動の基準だったから、

自分の感情がよくわからなかったりする。

 

あーあー、ダメだな、とついつい思う。

自分にダメ出しするのも、くせになっている。

 

否定的な親に育てられて、

ここまできたのだから、

そういう反応になるのは、仕方がないわ。

焦ってもしょうがないわ。

 

ついつい他人の反応をうかがってしまう。

ついつい否定的に考えてしまう。

それが、今のわたしの自然体ということ。

 

他人の顔色みて、自分の欲求を抑えて生きるのは、

もうイヤだから、つらいから、そこは変えていく。

 

でも同時に、そういう自分にダメ出しもしない。

 

抑えられて、埋もれている感情を

そっとそっと掘り起こす。

 

わたしが何を感じているか、

何をしたいのか、言いたいのか、

わたしがちゃんとわかってあげられるように、

大事に、じっくり育てていくよ。

 

脱皮する

それまで自分を縛っていたものから

自由になる瞬間

 

それが、最高なのだそうだ。

 

わたしは、脱皮に時間がかかっていて

まだ自由ではないけれど、

そうなんだろうなぁということは、わかる。

 

落差が必要なんだね。

自由を制限する枠がなかったら、

そこから脱する喜びが味わえない。

最初から枠がなかったら、

自由のありがたみがわからない。

 

自分を縛ってた枠。

なんとも不自由で、狭くて、苦しくて。

 

でも、必要だったんだ。

大きな喜びを得るために。

 

子どもたちに、できるだけ

枠をはめないように、と思って育ててきた。

わざわざ苦しみを与えることはないけれど、

枠になってしまうことを、

必要以上に怖がることもない。

 

子どもは、子どもなりに、

枠をどうにかしていくだろう。

それがその子の人生。

わたしにできることは

見守ることくらい。

 

わたしの考えを伝えることはできる。

でも言うことを聞かせることなんてできない。

 

参考にしてくれればいいなって思うけど、

意味わかんねぇ、って言われたら、

それはそれ。

 

脱皮する喜びは奪えないね。

何を枠って感じるかも、それぞれだしね。

 

それより、

わたしはわたしに集中して、

わたしの可能性をひらいていくわ。

大きな喜びに向かって。

 

 

道を照らす光

本は子どもの頃から好きだった。

本屋さんにふらりと行って過ごすのが好き。

 

就職してすぐくらいの時、

会社の帰り、時間があいた。

本屋さんに立ち寄って、一冊の本を手に取る。

臨床心理学者の書いた本だった。

 

この本が、わたしがこころを見つめていく

はじめの一歩。

 

何をやっても足りないと思い、

自分に価値があることを感じられず、

周りの評価を、常に気にしてた。

 

そんな行き詰まった閉塞状態を

少し明るく照らしてくれた本。

 

そこから、いろいろ探し出した、

照らしてくれる光を。

 

心理学の本、

宗教家の書いた本、

コーチング、

スピリチュアル、

自己啓発

マヤ暦、

数秘術

などなど、いろいろ。

 

手元をポッっと照らしてくれた小さな光。

内側に入って、こころを照らし続けてくれる光。

遠くから灯台のように照らしてくれる光。

わたしには眩しすぎる光や

逆に明るさの足りないものもあった。

それぞれ、さまざま。

 

必要な光は

必要な時に出会って、

必要な道しるべになってくれた。

 

それらの光に出会って、

考えが変わり、行動が変わり、捉え方が変わり、

世界が変わった。

 

蓄積されたものは人それぞれ。

同じ場所にいて、同じことを見ていても、

捉える世界は、それぞれ違う。

 

必要としている光も

それぞれなのだろう。

 

自分で選んだからこそ

大切な光になったんだと思う。

 

わたしが楽になったからって、

違う人が同じ光を必要としているとは限らない。

必要なのは、今ではないのかもしれない。

 

それは自分の子どもであっても同じこと。

 

それぞれに、必要な光。

自分の光を押し付けることも、ない。

 

等身大の自分

何か不具合が起こると

わたしのせいだって思うクセがあった。

 

不機嫌な人がいると

わたしが怒らせた?って思った。

 

要求に応えないとならないって思ってた。

要求に応えられないわたしは、ダメな人なんだと思ってた。

 

自分のニーズより、

他人のニーズを先回りして満たしてあげようとする。

そうしないと、好かれないと思ってた。

 

嫌われることを恐れてた。

自分が嫌いな人からも嫌われたくなかった。

 

そうやって、

他人の顔色をうかがってばかりだった。

 

がんじがらめ。

おどおどして、緊張して、

自分はどこにもいなかった。

 

なんか好かれない。

仲良くなりたい人たちと、仲良くなれない。

仲間に入れてもらえない。

わたしの努力が足りないのかな?

間違ったことを言っちゃったかな?

もっと他人の気持ちがわかるようにならなくちゃ!

もっとがんばってあわせなきゃ!正解を探さなきゃ!

 

頑張れば頑張るほど、からまわり。

ますます緊張して、こわばって 、

自然体からは、遠のくばかり。

 

ますます好かれない。

わたしってダメなんだなって、

こんなに合わせようってがんばってるのに。

自分をいじめる日々。

 

自分の意見なんて、なかったの。

他人に求められることを言わなくちゃって思ってたから。

そして「間違ったことを言わないように」とか

「印象のよいことを言わなくちゃ」などと思えば思うほど、

言葉は出てこなくなる。

 

他人の顔色をうかがうから、

わたしがどこにもいなかったから、

ひととうまくつきあえなかったんだわ。

頑張る必要なんてなかったんだわ。

 

がんじがらめに縛られていたのを、

少しずつ少しづつ、

ほどいていく。

 

見ようとしてなかった自分のイタイ部分。

隠そう隠そうとしていたところ。

目をそらさずに、ちゃんと見る。

過信も卑下もしない。

等身大の自分を知る。

 

会話を盛り上げるのが上手で、

出会ってすぐ仲良くなれる人たち。

とても楽しそうで、うらやましいなーって思ってた。

今でも、思ってるよ。

仲良くなれたら楽しそう。

 

でも、そんな会話の中心にいる人たちにばかりに

目がいってたけど、

世の中そんな人たちばかりでもない。

そんなことを改めて気がつく。

 

他人を惹きつけるようなしゃべり方はできないけど、

言葉をひとつひとつ噛みしめて話す人。

テンポよく言葉は出てこなくても、

相手の話をじっくり聴く人。

そんな人たちも、ちゃんといて、

そういう人たちと話しをして、

なんかホッとしてるわたしがいた。

 

その人たちは、わたしの姿。

自分をちゃんと見てなかった時は、

目に映らなかった。

 

世界は、自分を映し出す鏡だ。

ヘタでよかった。

こないだ、歌のレッスンの最中に

「歌がヘタでよかったな〜」って思いがこみあげてきた。

 

ヘタで?よかった?
負け惜しみじゃないよ。
本心からそう思ったの。

 

わたし、発声練習が大好き。
声帯の使い方、息の使い方、からだの使い方。
それによって、出てくる声が変わる。

 

今、声帯どうなってるかな?
今、鼻の奥に音がよく響いたな〜。
あー、喉が閉まってうまく声が出なかったーーー。

 

そんな風に感じながらレッスンを受けている。

 

息の使い方がもっと上手になったら、あの音が出そうだな。
喉が閉まっちゃう時は、あごを意識すればいいのか〜。

 

自分の声と息とからだで遊ぶ。
すごく楽しい。

 

歌がヘタでよかった〜。
最初から上手だったら、この楽しみは味わえなかった。

まだまだへたっぴ!伸びしろたっぷり‼️
これからもっと楽しめる。

 

そんでね、思ったの。人生も同じだなって。

わたし不器用で生きるのヘタで、
アイタタタッがたくさんあった。

 

アップダウンする感情に振り回され続けて
苦しかったから、どうにかそこから自由になるために
自分の感情を見つめていった。

 

今、こんな風に感じた。
今、けっこうブラックなことおもったでしょ!
あー、感情を抑えようとしちゃったね。

 

抑えた感情は、別のとこから出てくるわー。
感じきったら、感情に振り回されなくなるんだね。

 

自分の感情を見つめる。
けっこう楽しい。

 

アイタタタッに悩んでる時は、楽しいどころか
苦しかったけど、
そのおかげで感情と遊ぶ術を身につけた。

 

不器用で、よかったな〜。

アイタタタッはもういらないけど。