大事にされたい

結局、大事にされて育ったという実感がないから、

大事にされたい、を求めてしまう。

 

今、大事にされてる。

夫からも子どもからも。

それなのに、どっか満たされない。

 

それは、自分で自分を大事にしてないから。

自分で自分を大事にするって、

どういうことかわかってなかった。

 

最初に妊娠した子を

4ヶ月目に入った頃に、流産してしまった。

その時、わたしの母が言った言葉。

〇〇(弟の名前、母からすれば息子)の生まれ変わりが

来てくれたと思ったのに。

 

えっ?と思った。

弟は30歳の時に亡くなった。

それから数年後、

わたしの妊娠は明るさをもたらしたけど、

生まれ変わりとは微塵も思ってなかった。

母のために産むわけじゃない。

そしてこのタイミングで言われたのにも

傷ついた。

 

夫にこのことを言うと

「愛されてなかったんだね」と言われた。

ショックな言葉だったけど、納得してる自分もいた。

……愛されてなかったんだ。

 

結婚が決まった時も、

いそいそと、勝手に家財道具を

買ってきたり。

いったい誰が結婚するのだろう。

 

結婚前に、28歳で子宮筋腫になり、

手術することになった時は、

入院の一週間前に、

お見合いの話を持ってきたこともあった。

大きな手術ではないけれど、

それなりに手術に対して不安でいっぱいだったわたし。

お見合いなんて、考えることすらできないのに。

 

小さい時から、

母の都合や感情が優先だった。

顔色をうかがい、

機嫌を損ねると、怒られる。

なぜ怒られてるか理由がわからないことも

たくさんあった。

 

父に対する愚痴や、

親戚やご近所さんの悪口も

聞かされた。

わたしの友だちへの批判も。

 

常に主導権は母にあり、

思い通りにコントロールしようとする。

行動、発言、考え、感情までも。

時には、お金の力も使って。

 

親なんて、どこも同じなのかと思ってた。

 

その後、わたしは子どもを二人授かった。

わたしみたいな思いはさせない。

そう思って育ててきた。

 

大事だよって毎日伝えてる。

気がついたことは、褒める。

ありがとうって言う。

怒る時も、

人格を否定する言い方はしないように気をつけてる。

愚痴や悪口なんて聞かせない。

友だちの批判なんてしない。

 

のびのび育ってると思う。

自分や他人を信じるこころも、育ってると思う。

 

でもね、わたしは二の次だった。

結婚するまで、母が優先。

子どもが生まれてからは、子どもが優先。

 

自分で自分を優先させて来なかった。

子どもを傷つけないように、

ああしなきゃ、これはしちゃダメって、

こういう言い方にしないとって、

自分で自分を縛ってた。

 

自分の感情や欲求を、

置き去りにしてる。

自分で自分を大事にしてない。

 

それじゃ、満たされるはずがない。

 

感情や欲求、置き去りにする状態に

慣れすぎてて、

気がつかなかった。

 

まずは自分。

そこから。

感じつくす

いろんな感情を抑えつけていた。

 

わがまま言っちゃいけない。

怒っちゃいけない。

泣いてはいけない。

調子にのっちゃいけない。

 

子どものころ、そんな感情をあらわすと

怒られたから。

抑えててもはみ出る気持ち。

はみ出すたびに、頑固だ強情だと言われ、

時には嘲笑われた。

 

嫉妬は醜いもの。

弱音はいたりすると、つけこまれるよ。

明るくしてなくちゃ。

他人には優しくしなくちゃ。

迷惑かけちゃだめ。

 

学校や社会で、しらずしらずに

刷り込まれていく価値観。

自信がなく、軸が定まらないわたしは、

他人に合わせてフラフラしてた。

自分の感情は置き去りにして。

 

抑えてるって意識もなかったよ。

 

抑えこまれて感情が、

わたしの中で渦巻いて、

出口を求めていたんだね。

苦しくて苦しくて、

でもなんで苦しいのか、わかってなかったの。

 

子どもが生まれて、3歳になった頃が

苦しさのピークだった。

一人ならごまかしてこれたことを、

子どもが、あばいていく。

ママ友とのつきあいも、うまくいかなくなった。

爆発寸前💥

 

そんな時に出会った人が教えてくれたこと。

感情を感じつくす。

 

静かに座って、

自分の内面から浮かび上がってきたら

その感情をみる。

 

どんな色?

どんな形?

手触りは?

動きはある?

温度は?

形容するとしたらどんな言葉?

 

感情をイメージで捉えて

形を与える。

 

一人になれる時間に、やってみた。

 

最初に出てきたのは「怒り」

真っ赤で熱くて、

手に負えない感じ。

 

日を置いてまたやってみる。

次に出てきたのは「悲しみ」

ガラスの箱に閉じ込められたわたしが、

その外側を流れる水をみている。

とても寒い。

 

また別の日、「不安」

針のむしろに居るような

落ち着かなさ。

 

その次が「嫉妬」

真っ黒でドロドロ。

 

しばらく感情が浮かばない日が続いて、

ある時ふと出てきたのが「喜び」

コンビニに行く途中、

何気なく顔をあげると、高く澄み渡った空が

目に飛びこんできた。

風が街路樹の葉を揺らす音や、

車が走っていく音までもが、鮮明に響き、

通りすがりの親子が、

楽しそうに仲良くおしゃべりしながら歩いていた。

 

気がついてなかったんだ、今まで幸せの中に生きていたことを。

特別じゃない日常に、こんな美しさがあったってことを。

「喜び」があふれてきた。

 

この日を境に、

感情を「感じつくす」ことをする必要がなくなった。

やってみようと座っても、たぶんできないと思う。

 

押さえつけられて、ないものにされていた感情に

居場所ができた。

 

怒りや悲しみや嫉妬が

消えたわけではない。

毎日喜びに満ちあふれているわけでもない。

 

感情を認め、付き合っていく

スタート地点に立てた。ということ。

 

五感が研ぎすまされて「喜び」を鮮明に感じたのは、

あれ以来ないけれど、

でも、思い出せば

いつでも戻っていける。

 

今日も、空がきれい。

一里塚

きちんと育たなかった自尊感情

いつも不十分って感じて、

頑張りすぎるけど、空回り。

なんとなく後ろめたくって、どこにいても

ここにいていいんだっていう安心感をもてない。

何か不具合があると、わたしのせいじゃないかって

過剰に責任を負い、義務を感じ。

 

ありのままって言葉が、何を表現しているのか、

全然わからなかった。

ありのままの自分が、ありえなかったあの頃。

 

自分を取り戻す旅。

まず一番大事だったのは、

自尊感情を育て直すこと。

 

今だって、今までだって、十分がんばっているということ。

なかなかよい側面を持っているということ。

頑張らなくたって、価値は減らないということ。

できることだって、たくさんあるということ。

ただ生きているということ自体が、素晴らしいということ。

つらい子ども時代を生き延びてきた強さもあるということ。

 

できないところ、不十分なところしか見てなかったことに気づく。

 

よいところを探して、ほめてみる。

最初は10個探すのでさえ、無理だった。

見つけたよいところは、

日記に書いて、忘れないようにする。

毎日必ずいいところを見つける。

人からいいところをほめてもらう。

意外な自分を発見。そしてきちんと受け入れる。

人の良さも見つけて、ほめる。

 

何かが足りないって思いが消えていき、

安心感って何かがわかってきた。

過剰な義務感に振り回されることも、減ってきた。

ここまで、大きな一歩。大事な一里塚。

 

歩き方を覚えたら、歩く練習はもういらない。

 

見えてなかった自分を、見つけた。

次は隠している自分を、探しに行こう。

 

次の一里塚へ向かって、また一歩進む。

 

かくれ毒親

うちの親は、かくれ毒親

 

身体的な暴力を振るったり、ネグレクトだったりするのは

かくれてない、どこから見ても毒親

 

かくれ毒親は、

子どものため、ということを隠れ蓑にして、

精神的な虐待をする。

本人も気づいてないと思う、

自分のしていたことが虐待だってこと。

 

悪意があってもなくても、

子どもを混乱させ消耗させ、

自信を奪い、のびのびと生きていけなくさせる、

そういう親は、虐待をしているのだ。

 

わたし、虐待されてたって気づいたの

大人になってからだもの。

毒親の本読んで、愕然とした。

わたしがされてきたことが、書いてあった。

その衝撃は、忘れない。

 

わたしが感じてた生きづらさ、

ここからきてたのだと、確信できたのは大きかった。

抵抗する力のない子どものころの出来事。

わたしには、なす術はなにひとつなかったんだ。

 

不健康にコントロールされて、

いつも母親の顔色を伺ってきたわたしには

自尊感情は育たず、

いつもなんとなく後ろめたい気分、

常に何かが足りないような気がしていたし、

過剰に自分のせいだと思う癖があった。

母親の声が、批判の声となって内側から聞こえてくる。

 

びくびくしながら生きてたね。

間違えないように、失敗しないようにって。

何か不具合が起こったら、わたしのせいじゃないかって

思ってた。

 

よく頑張ってきたね、わたし。

ここまで生き延びてこれた。

子どものわたしには、対抗する力はなかったけど、

理不尽にきずつけられきたけれど、

苦しみをどう減らしていくか、

考え、向き合う力があった。

より良く生きようとする意思があった。

 

今でも残ってる。

自信のなさは、ぽろっと顔を出したり、

不機嫌な人が、異様に気になったり、

人と会うとき、緊張しすぎたり、

不用意に傷ついて、

立ち直るのにものすごく時間がかかったり。

 

心の痛みが消える日は来るのかな?

完全に自由に、自然体で過ごせるようになれるかな?

それはわからないけど、 

自分を回復させるために、一歩一歩進むしかない。

感謝は、するものなのか?

わたしの母は、毒親だ。

 

生きづらさを抱えてきた。

人間関係では、緊張し、硬くなり、

心の中は否定の嵐。

なにをしゃべっていいのか混乱し

言葉を飲み込んでしまうことが多かった。

耳元では、自分を責める声がいつも聞こえていた。

 

育てられ方が大きく影響している。

ちっとも自信がなかった。

親が、自分の自己満足のために、

子どもを卑下していたからだ。

 

わたしに子どもが生まれた時、

自分がされてきた育て方は、しない。

強く決意した。

同時に、自分を育て直すことにも取り組んだ。

未熟な親に育てられたわたしもまた、

肝心なところが育ちきらずに大人になってしまっていたから。

 

自分の育て直し。

いろんな人の話を聞いたり、本を読んだり、

コーチングを受けてみたり……。

 

だいぶ育ってきた、と思う。

最初の頃と比べたら、別人のよう。

ただ、ここを越えると一気に楽になるだろうなぁと思う

その一線が、なかなか越えられずにいる。

 

親に感謝しなさい

親を受け入れなさい

親を許しなさい

どんな親でも、親を許してないうちは

自分を許せないのだから。

いろんな人がそう言っている。

 

そうなのか、じゃぁ親との問題に向き合うか。

 

思いを伝えてみた。

まるで理解しないし、そもそもできないみたい。

 

してくれなかったことではなく、してくれたことに目を向ける。

親がいなかったらわたしは存在しないのだから、そのことに注目する。

そう言われたけど、感謝には至らない。

 

親のこと、憎くて憎くて、というわけではない。

諦めている。

ときどき自分勝手なことを押しつけをしてくるので

腹がたったりもする。

いつまでたっても、感謝は湧いてこない。

 

わたしには二人子どもがいる。

11歳と8歳。二人とものびのび育っている。

子どもと過ごすドタバタな毎日。

成長していく姿を見られる幸せ。

 

そこには感謝しかない。

 

親が子どもを育てる営み。

感謝するのは親のほうではないだろうか。

子どもという、大きな恩寵を与えてもらったのだから。

 

子どもたちが、親に感謝してくれれば、それはうれしいけど、

育てるためにしていること、当たり前って受け止めてくれて、

それでいい。

 

感謝はしようと思ってできるものでは、ない。

感謝は、しらずしらずに、あふれているもの。

 

自信がなくても

シナモンロールを、24個焼いた。

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こんなにたくさん作ったのは、初めて。

ジンジャーケーキも焼いて、

お届けした。

 

先月から、頼まれて、

ケーキを焼いて持っていく。

おいしいって言ってもらえるのが、

何よりうれしい。

 

今回はパンも頼まれて焼いた。

 

パンの焼き方、友だちに教えてもらったのが

7〜8年前。

それから家族のために、ときどき焼く。

焼き菓子も、自家用でときどき作ってきた。

おいしければいいわって、

形は二の次。

 

頼まれて焼くのは、ものすごくドキドキした。

うまく膨らまなかったらどうしよう。

失敗したら、発酵やり直す時間ないしーー。

いっつもすぐ食べちゃうから、

時間経ってからもおいしいのかな〜。

しぼんじゃったりして(//∇//)……考えすぎ……。

 

焼きあがって、

形がイマイチだな〜、と思う。

 

自信は、全然ない。

それでも引き受けた。

お菓子やパンを焼くのが大好き。

おいしいって言ってもらえるの、すごくうれしい。

断る理由なんてないじゃないか。

 

わたしの焼く素朴なお菓子やパンを食べて、

頼んでくれたんだもの。

精いっぱい、いまの自分の焼くお菓子をパンを

出せばいい(と、自分に言い聞かせる)。

 

先日子どもに言ったことを、思い出す。

野球をやっている長男、小学6年生。

守備は得意で、練習もよくする。

というか練習が遊び。

でも、打撃は苦手意識があって、なかなか練習もしない。

うまく打ちたいって気持ちはあるようなんだけど、

苦手なことに、取り組もうとしないの。

「苦手だからって、自信がないからって逃げていたら

いつまでたっても今のままじゃない?」

 

子どもに向かって言ってるようで、

自分に言ってるんだわ。

 

やりたいことの、苦手な部分。

自信がなくても、やり続ける。

 

小さな宇宙

庭を作り直して、今年で4シーズン目。

元の庭から移植した木や

ちょこちょこと苗を買ってきては植えたもの。

枝を伸ばし、広がって、庭に馴染んできた。

 

あまり手間はかけてあげられない。

でも荒れた感じにはしたくない。

 

花とハーブ、野菜や実のなる木、

そしてどこからかやってくる雑草たちも

みんな共存して調和する、そんな庭をめざしている。

 

いつのまにか存在している雑草たちも、

それぞれとても可愛い。

どんな雑草たちも愛でていこうとおもってたのだけど、

その考えを曲げることになっちゃった。

 

厄介な侵入者が。

細いツルを伸ばして、他の草や木に絡みつき、

しなだれかかり、覆い尽くされて、ダメにしてしまう。

 ハート形の小さな葉っぱ、細くてはかなげなツル、

可憐で繊細な見かけに騙されて、気がつくと一面覆い尽くされていた。

こんなタイプの人もいそうだよね〜。恐っ!

 

タネを落としていて、

今年も庭のあちこちから生えてきた。

見つけては、引き抜く。

抜いても抜いても、また出てくる。

キリがない。

 

あー、これは「業(カルマ)」だわ。

わたしの心の中にある、悪業のタネ。

摘んでも摘んでも、また芽が出てくる。

キリがない。

でも摘むのをやめたら、

荒れ放題になってしまう。

 

このツル植物の芽を摘みに、

庭に出る毎日。

ついでに観察する、他の草木の成長や変化。

土に触って癒されている。

なんだか楽しみになっていることに気がつく。

 

悪いカルマを摘み取って、

自分を整えていこうとする行為こそが

癒しそのものなのかもしれないね。

 

庭もわたしも、小さな宇宙。