何もしないことの価値

お友だちと会った。

6年ぶり。

懐かしくて、嬉しかったんだけど、

なぜか、帰ってきたら

ぐったり疲れている自分がいた。

 

明るくてがんばりやな友だち。

前向きで積極的。

 

考えの方向性は似ている、と思う。

それは6年経っていても変わっていない。

 

話しが合わないわけではなかった。

 

けれど、すごく疲れたのは、

たぶん罪悪感を感じて、

ココロの中で抵抗していたから。

 

何かをすることを勧められる。

こんなことをしたらいいんじゃない?とか

このことは大事だから、一緒に伝えていこう!とか

子どもの頃ワクワクしたことって、天命だよ、

ワクワクすることをしよう!とか

苦手なことが、実は向いていることだから、

やってみたらいいよ!とか。

 

どれもこれも、ココロが動かない。

何かしないといけないのか??

 

世の中には、

バリバリ働いて、家事もこなして

趣味もたしなみ、社会的活動もこなして、

イキイキ暮らしている人

いると思う。

 

けど、全員そうしなきゃってことはないはずなの。

 

今のペースで、いいと思ってる。

ゆっくりする時間も必要だから、

これ以上はしない、引き受けない。

 

仕事してないのに、

PTA活動を引き受けないということに、

頼まれたことを断ったりすることに、

罪悪感を感じる。

プレッシャーを感じる。

 

誰も押し付けてはいないはずだけど。

勝手にプレッシャーを感じてるだけ

だと思うよ。

自分で自分に、ゆっくりすることを

どこかで許してない。

 

だから疲れる。

 

世の中は、何かする、

何かしているってことに、

非常に価値を置いている。

 

何もしないで

ゆっくりする派は、

肩身がせまい。

 

押し寄せてくる用事から、

身を守らないと、

ゆっくりする時間は

確保できない。

 

自分で選んでいいはずなのに、

断ることに罪悪感が、やっぱりある。

 

時間やりくりしたら、できるかもとか、

仕事している人はできないから、

できる人少ないだろうに、とか。

そんなことを、考えてしまう。

 

断るのに、理由が必要だって思っちゃう。

ゆっくりする時間が必要って、

理由にならないように思っちゃう。

 

なんでそんなにする事が多いんだろう?

なんでそんなに忙しくしてなきゃならないんだろう?

 

ゆっくりするはずだったのに、

罪悪感で、ココロが休まらなかったよーー。

好き嫌い

何が好きなのか、

よくわからなかった。

 

生きづらさをなんとかしたいと思って、

ジタバタしてた日々。

好きなことをするといいよ、と言われた。

 

なんだろう、好きなことって。

 

よくわからなかったけど、

とりあえず、手当たりしだい

これかなと思うことをやってみた。

 

それから2年ちょっと。

続いているものは、

きっと好きなことだ。

 

これが好きー!

こういうことがしたい!

感情が弾けて、

まっしぐらに進めたらよかったな。

すぐに出てこないのは

なんだかとてもさみしい。

 

ずっと、人の顔色をうかがい、

どう思われるかばかりに

気を取られてきたから、

自分で自分がわからなくなってしまった。

 

取り戻す日々。

少しづつ。

それでいい。

 

わたしには子どもが2人いる。

2人が、そんな風にならないように

気をつけて育ててきた。

 

何が好きなのか、

何をしたいのか、

どういう気持ちなのか、

自分の感覚を大事にして欲しいと

思っている。

 

親が先回りしないように。

親の不安を押し付けないように。

親の好みを押し付けないように。

 

いつもうまくいくわけではなくて、

押し付けてるな、と思うこともある。

それでも、気をつけてるのとそうでないのとは、

大きな違いがあるだろう。

そう思っている。

 

失敗もして、本人が気がつくことが大事。

 

まだ中学生と小学生。

同年代の子よりも

少し幼くみえるうちの子たち。

まだまだこれから。

 

未熟であることを、認める。

成長の速度を、比べない。

言い聞かせてないと、

焦る気持ちが表に出てしまう。

 

足りないところって目に付きやすいね。

 

未熟で幼くても、

自分の好き嫌いは、

間違いなくわかっている。

やりたい、やりたくないも

はっきりしている。

その上で、周りに配慮もできている。

 

自分で自分がわからなかった母親に

育てられてるんだから、

もう、上出来じゃないか。

卑下する処世術

謙虚であることが

美徳とされいる。

大抵の人は、日常会話で

謙遜したり、卑下したりする。

 

そうしないと、反感をかう、のだと思う。

自分のことだけでなく、

家族のことも卑下する。

 

子どものママ友たち、

夫さんや子どものこと、

そこまで言うんだ、と思うほど

こき下ろす人が多い。

言いやすいんだろうなぁ。

夫さんや子どもは、分身扱いされている。

 

処世術なんだろうな、と思うけど。

それでも、

夫さんや子どもたちは、

こんな言われ方してるの知ったら、

嫌だろうな、傷つくだろうな、と思う。

 

自分だって、自分に卑下されたら

本当は嫌じゃない?

本当は傷ついてない?

 

わたしは、嫌だったよ。

傷ついてたよ。

卑下して謙遜しているその内側では、

尊敬されたいって思いもあったし、

自尊心が抑えつけられて、苦しんでいた。

 

子どもだった頃、

親が他人に

わたしのことを卑下して言っているのを聞いて、

深く深く傷ついてた。

 

振り返ってみると、

そうやって傷ついた自尊心を、回復する術や、

支えになるものを持ってなかったな、と思う。

大人になってからの生きづらさは、

自尊心の低さが影響した、と思う。

 

だから、本人の目の前で

子どものことを卑下するママ友に

ハラハラする。

その子が

自尊心を回復する術を持ってますように

と祈る。

 

親に卑下されて

自尊心が低下してしまった人は、

多いんじゃないかな。

 

目の前で言われてなくても、

親に卑下されてること、

妻に卑下されてること、

なんとなく感じるような気がするけど。

 

謙遜して、卑下する処世術は

形だけへりくだって、

驕り高ぶらない謙虚な人だと、

信用を得る。

 

偽善じゃない?

 

ママ友の会話の中で

夫や子どもをディスると、

「そうだよねー、うちも」みたいな

一体感がすぐ得られる。

 

卑下する処世術の影には、

信用を得て、

立場を確保したいという欲と、

承認欲求と、

同調して安心したいというような、

気持ちも含まれてると思う。

 

それらを得るために

払っている代償は、

大きい、と思う。

 

口では、謙遜していながら、

自尊心を保つために、

承認欲求を満たすために、

どこかで、小出しに、巧みに、

自慢と思われないように自慢する。

 

そんな複雑なことしないで、

自分のことも、他人のことも、

素直にいいところを認め合えるように

なればいいのにな。

思い込みに気づく

いつでも全力で取り組まなくてはならない、とか

絶対遅刻してはならない、とか

目立ちすぎると妬まれる、とか

結構思い込みだったりする。

 

そんな思い込みに、行動が左右されたりしていて、

自分を苦しめることがある。

 

全力で取り組むはいいことだけど、

いつでも、ではなくてもいい。

遅刻は良くないことだけど、

絶対してはならないこともない。

 

時と場合による、と思う。

 

苦しかったり、悩んだり、

ストレスを感じたりしていたら、

思い込みがないか、探ってみる。

 

わたしが、いま一番縛られている思い込みは、

 

・他人より多く負担しなくてはならない。

・負担が少ないと罪悪感を感じる。

・余力があるのに、引き受けないのはダメ。

・得したり、優れたりしてると、妬まれる。

・同調しないと、排除される。

・期待に応えなくてはならない。

・誰かに何かをしてもらったら、お返しをしなくては。

 

こうやって、あっちもこっちも

負担して、ヘトヘトになったり、

負担減らして、罪悪感を感じたり

している。

誰かの親切を素直に受け取れず、

拒否したり、お返ししなくちゃって

義務感や負担感になったりする。

 

自分ファーストにしてはならないという、思い込み。

 

この思い込みは、

どこから来てるのかなぁ?

そんなに自分をいじめなくてもいいのに。

あちこち負担することで、

したいことができなくなるのは、よくない!

親切も、素直に受け取りたい。

 

長年の持ち続けてきた思い込み。

すぐには、なくならない。

まずは、少し弱めてみよう。

 

自分のできる範囲を、

自分で決めて、

その中は精一杯頑張る。

それ以上はしない。

自分のペースを大事にする。

 

そして、思い込みを変えていこう。

 

嫌われてもいい、と思う。

自分のことは自分で決める主体性を守る。

同調しない。

それによって伴う孤独を引き受ける。

排除されたら、それはそれでも構わない。

 

嫌われることを恐れてるうちは、

排除されることを恐れているうちは、

主体的である自由は、得られない。

宗教について

一般的に

なんか宗教っぽい、と言われると

怪しい、警戒してるってこと。

 

宗教が怪しいってイメージになったのは、

オウム真理教の事件の頃からかな。

壺を売りつける宗教団体もあったっけ。

 

騙される、洗脳される、怪しい、

そんなイメージになっちゃってる。

何というか、宗教アレルギーだねぇ。

 

うちの実家にも、

夫の実家にも仏壇がある。

仏教徒

母や義母が、毎朝お供えして線香をあげてる。

わたしはたまに帰省した時手をあわせる程度。

 

熱心、とは言えないけど、

仏教の本とか、お坊さんの書いた本とか

読むと、いろいろ教えられる。

大事だなって思う。

 

宗教という形式よりも、

宗教性、が大事なんじゃないだろうか。

うまく言えないけど。

 

信仰のある人は、強いと思う。

信仰に支えられて、芯がしっかりとして、

ぶれないようにみえる。

 

熱心に宗教に関わっている人が、

周りに結構いる。

 

話を聞くのは、

面白いよ。

 

共通するのは、

真剣に生き方を模索しているところ。

どうしたらよりよく生きられるのかを

追求しているところ。

 

それと、ちょっと困るのは、

自分の信じている宗教の形式が、

絶対になっていて、

他を認めらないこと。

 

いろんな宗教の話し、教え、

共通点が多い。

アプローチは違っても、

目指すところは、みんな

よりよく生きたい、のはず。

 

形式なんかにこだわらず、

小さな違いにこだわらず、

よりよい世界にしていければいいのにな。

ディスコミュニケーション

仲のいい人との間でも、

尊敬していたり、

考え方がすばらしいなぁと思う人との間でも、

話がずれてるな、と思うことがある。

 

言葉の指し示す意味合いが

微妙にずれてるのだと思う。

 

ズレが生じやすい言葉、

例えば「普通」。

例えば、「愛」。

「自信」という言葉にずれがあったこともある。

 

「普通」って、

だいたいこの辺りが普通だと思う範囲、

それぞれによって違うだろうなぁ。

ぴったり重なることはないだろうし、

全く違うこともあるかもしれない。

 

人それぞれ概念が違う。

言葉って難しい。

 

概念の、ちょっとしたずれに気がつかず、

互いの理解の方向を、

かけ離れたものにしてしまうこともある。

 

もうずいぶん前だけど、

バカの壁」という本が流行っていた。

手元に本がないので、正確な言葉じゃないけど、

そこには、こんなことが書いてあった。

 

情報 × 係数 = 反応(行動)

 

同じ情報を入力しても、

それぞれの持っている係数が違うので、

反応が違う。

 

虫、という情報に

興味の全くない人の係数はゼロ

反応は、全くなし。

 

逆に、係数が無限大の原理主義者は、

ちょっとした情報にも、

過剰に反応してしまう。

 

係数の違いによって、

伝えたいことが伝わらなかったり、

思わぬ反応が返ってきたり。

 

言葉に対する概念の違い、

情報に対する係数の違い、

一人として、ぴったり重なる人はいない。

 

ずれを抱えたまま、

理解と誤解の間のどこかへたどり着く。

 

コミュニケーションってきっと

そういうもの。

 

理解してもらえるはず、とか

理解できるはず、と思うのは

危険なことかも。

 

ズレが許せなくなってしまう。

 

最初から、ズレがあるものだと思っておけば、

無用な期待はしなくなる。

理解しあえなくても、

わからないことをわからないまま、

尊重しあうことは、できるはず。

 

あ、ちょっとずれてるかな?

噛み合ってないかも?

向いてる方向が違うかな?

そう感じた時、

相手の土壌に思いを向ける。

 

わたしとは、違う土壌なんだな。

考え方は、違うけど。

重なる部分で、協力しよう。

あまりにも掛け離れてる人とは、

距離をとって。

押し付けてくる人からは、

逃げるのが一番いい。

 

同じものを見ていても、

同じ言葉を使っていても、

人は、それぞれ違う。

 

それがわかってから、

少しコミニュケーションが

楽になった。

異質が怖い

小学校の開放図書館から

コンビニ人間」という本を借りてきた。

確か、少し前に芥川賞をとった作品。

 

なんとなく借りてきた本だったけど、

すごく心を揺さぶられてしまった。

 

主人公は36歳独身の女性。

大学生の時から18年間、同じコンビニでバイトを続けている。

詳しくないから正確じゃないかもだけど、

発達障害とかアスペルガーとかそんな感じ。

他人の感情を読み取ることが苦手で、

自分の感情も、なんだか薄い。

 

コンビニには、いろんな人がやってくる。

変わった人も、時には。

 

異質な存在は、ゆるやかに排除されていく。

暴力的ではない、ゆるやかな排除が、

なんというかとても恐ろしく感じる。

たぶん、わたしもやっている、無意識のうちに。

みんな無意識のうちにやっている。

それがとても恐ろしく感じた。

 

主人公は、

自分がどこか変わっているということはわかっていて、

同世代の同僚から、服装や振る舞いを学んで、

浮かないように、居場所を確保するために、努力している。

 

主人公は、障害であるように、少し極端に描かれてるけど、

健常とされる人たちも、普通だとされる人たちも、

地続きだと思う。

 

誰もが(多くのひとが)異質になることを恐れ、

異質にならないように、合わせている。

無意識のうちに。

 

途中、新しいバイトの男性がやってくる。

38歳独身。

その人は、ずっと異質だと排除されてきたことに

怒りがたまっている。

世間の鼻をあかしてやろうと、無謀な計画を立てて、

さらに排除されていく。

 

異質な人を、排除していって、

どんどん狭まっていく感じが、恐い。

狭まった同質の中から、さらに異質を見つけて

排除する。

均質になればなるほど、ちょっとしたことが異質になり

居場所がどんどん狭くなる。

 

現実でも、そういう風になっていく雰囲気、

肌で感じる。

個性を大事になんて、建前なんだなって思う。

狭く狭くなっていく、同質の層。

 

異質になることを恐れて、

合わせる努力をしたり、

自分は普通だと信じて、

異質な人を忌み嫌ったりする。

 

でも、誰もが異質なんじゃないのかなぁ?

同じ人間なんて、どこにもいないんだから。

 

異質を排除することって、

結局は自分の首をしめることにように思う。

 

寛容じゃない、不自由な世間。

その中に、含まれるわたし。

排除したり、排除に怯えたり。

 

そんなことを感じて、揺さぶられちゃった。